2019年10月17日木曜日

公立福生病院透析中止事件がとうとう司法まで



提訴報告集会に参加してきました。
本当にこの事件は最初からもやっとしています。

先日もブログに書きました。
セミナー「人工透析の中止問題を考える -福生病院の事例を軸に-」に行ってきた
https://tomocya-tomocya.blogspot.com/2019/07/

この裁判の原告は患者の夫と次男です。しかしその二人の姿はありませんでした。
この場にいたのは裁判の支援者と弁護士たちです。

これをどの立場、視点で考えるかで全く異なる様相をみせます。患者の視点、医療者の視点、社会保障費の視点、障害者の視点等々・・・

人は死ぬ権利を持たないのでしょうか。また本人の意思とはいったいなんでしょうか。ずっと答えが探せずにいます。
患者はいつまで弱い立場のままなんでしょうか。なぜ自分の気持ちを話ができない?
本当になぜなぜになっています。

まず、裁判についてですが原告提訴の理由が、「なぜ医師は本人が『こんなに苦しいなら(透析離脱を)撤回する』といったのに再開しなかった理由が知りたい」ということです。

この会の司会をしていたのが公立福生病院事件を考える連絡会の川見公子さんでした。
この方をネットで調べてみると臓器移植法を問い直す市民ネットワークの事務局長のようです。脳死は死ではないという立場の方のようです。

弁護士から訴状の説明があり、その後原告からのメッセージ紹介、透析患者さんからのアピール、国会議員(木村英子、川田龍平、阿部知子)からのメッセージ紹介、質疑応答でした。

ここで聞かれる話は、医師は死を持ち出してはならない、患者は生き続ける権利があるということです。そしてその攻撃の対象となるのが常に医師のコミュニケーション。

こういう場所でいくら社会保障費の話をしても命の選別、人権の話になってしまいます。そして医学的な適応がどうだったかなどに始終してしまいます。カテーテルを使えば透析はできるとか、セデーションは回避できたとか。

まだまだ考え続けていきますが、このままだとぐるぐるがとまらないのでこの辺にしておきます。