2016年2月22日月曜日

幸手地域診断報告会




昨年参加した地域診断の結果を自治会の方に報告をする会に、調査員の一人として参加させていただきました。写真は聞き取った内容をグラフにして説明しているところです。話の内容はきっと東埼玉総合病院の中野先生がどこかでお話をされると思うので、ここでは割愛します。

地域診断は調査したら問題解決ができるものではなくほんの始まりです。結果が全てではなく住民の方が感じた地域の問題を一緒に解決をしていきます。

こうやって話をしている場にいると医療って本当に一部にしか過ぎないんだなって思います。よく地域包括ケアの話をすると、地域の課題、地域の課題っていうけれど、他の地区はどうやっているんでしょうね。

そこに住んでいる人たちはどのような人たちなのか、ちゃんと現状を足を使って目で確かめて議論しているのかな?

○○%が65歳以上で・・・といってもその65歳以上の人たちの考え方や生活環境って実際に見ないとその数字はあくまでも参考にしかなりません。

街は月日とともに形をかえて、また人の様子は変わっていきます。その肌感って本当に大事だと思います。

とはいうものの、効果的に対応するには数字も大切です。それがないと感覚的にものをいっていて本質からズレてしまうこともあります。

数字だけの実態なしではなく、感覚だけのエビデンスなしとも違う、両方を兼ね揃えた調査が幸手の地域診断だと思います。

そんな場に参加させてもらって本当にありがたいと思っています。



2016年2月21日日曜日

エンドオブライフ・ケア協会の研修


この土日は9:00〜17:00までびっちり研修でした。
受講した研修はエンドオブライフ・ケア援助者養成基礎講座です。
■エンドオブライフ・ケア協会

人生の最終段階のお仕事をしていることもあり、勉強のために行ってきました。
私の知識やスキルの確認という意味もあります。

対象は医療者だけではなく、看取りをする介護職の方も入ります。約90名もの人が参加していました。なかなかすごいです。私のグループも看護師、介護職の人が半々でした。

受講してみて、とにかくぐったり・・・
理由はスピリチュアル・ペインをがっつり扱い、細かいパーツにわけるとそれぞれで1日できてしまうものを凝縮して、さらにインプット・アウトプットの繰り返し。。。。

それにしてもスピリチュアル・ペインはとにかく重い。事例を読みながら、自分の過去の経験などを持っているとさらに頭のなかはそれを思い出してかなりしんどいです。実はここ最近、祖母のことを思い出すようなことが多く、それに追い打ちがかかった感じでした。祖母への思いはすでに消化されているのですがかなり気分的に落ちます。

スピリチュアル・ペインは、4つの痛み(身体的痛み、精神的痛み、社会的痛み、スピリチュアルな痛み)のうち、対応ができない痛みになります。それは患者さんの自己の存在と意味から生じる苦痛で、死を目の前にした人が「なぜ私がこんな目にあうの?」とかどんどんできなくなっていく自分に対して「生きている意味がない」というものです。これって答えがないですよね。それに対して医療者、介護職などが向き合うという研修です。

痛みとはありたい姿(希望)と現実とのギャップによって生まれます。苦しみながらも、それまで気づかなかった支えに気付きます。その苦しみ、支えを見つけて支援することが周りにできることになります。それに対応して徹底的に叩き込まれるのが、「苦しんでいる人にとって苦しみを理解してくれる人がいると嬉しいと感じます。しかし人は相手のことを100%理解することはできません。どのような支援者であればいいのかというと、苦しんでいる人が”自分を理解してくれる人と思う”人であればいい」というものです。

散々、コミュニケーションやコーチングのトレーニングをやってきていますが、このシチュエーションは本当に難しいです。普通の時とは精神状態もまったく違うため、支援者が健康である状況で「死」を語るには向きあい方を知らないとバーンアウトしてしまいます。私も頭でわかっていてもかなりタフに感じます。しかし現場では普通なんでしょうね。

でもそれをキャッチできない(もしかしたらしたくないのかも)のが今の医療・介護現場なのかもしれません。

これを体感したのは大きな収穫だと思っています。
人は一人で生まれ、一人で死んでいきます。そして人はとても弱い存在です。だから支えが必要。この支えになる人材を増やしていかないと今後の看取りは厳しいのではないでしょうか。

私は東京医療センターで倫理コンサルテーション事業のお手伝いをしていますが、今回の研修をうけて、倫理サポートチーム(EST)の位置付けなどの意味あいがすんなりと落ちてきました。(この話はまた別に書きます。)

いい経験をしました。また小澤竹俊先生(めぐみ在宅クリニックhttp://megumizaitaku.jp)の熱い思いが伝わってきました。

研修の終わりにふっと思い出した言葉あります。人生の最終段階をずーっと考えた二日間だったからでしょう。それは数年前にみた映画「ツナグ」で樹木希林が読み上げていた詩です。

「最上のわざ」ヘルマン・ホイヴェルス『人生の秋に』

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、
親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物、
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつ外ずしていくのは、
真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、
それを謙虚に承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、
臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。

この映画をみた時より少し成長しているきがします。
http://yaplog.jp/tre_opensesame/8

かかりつけ薬局と薬剤師の役割 Vol.3 「次世代のPharmacy(総括)」


かかりつけ薬局・薬剤師の役割も3回目を終了しました。
とにかく、頑張ったと自分を褒めようと思っています。いまの薬局や薬剤師の状況を理解するところから始まり、制度の中でなにが起こっているのか、そしてなにが問題でなにが課題なのか、おぼろげながら見えてきたような気がします。

私の問題提起は「薬剤師はこのままでいいのか?」です。(ちょっと過激に煽りました)

私は、薬剤師の人たちはとても優秀な人たちだと思っています。彼らは知識もあります。資格という意味では、医師、歯科医師、獣医師、に並んで薬剤師は施設の管理者になれます。ところが医療の、特に臨床において、全くといって存在感がないと感じるのは普通の感覚ではないでしょうか。様々な制度が変わっていくなかで、「対物業務から対人業務」とわざわざ書かれてしまうほど人に向き合っていなかったんだと思います。

そんな人たちにむけて、患医ねっとの鈴木信行さん(みのりカフェのオーナー)から市民(患者)からみた薬局・薬剤師への期待を「こんな薬局に私はいきたい」ということを話してもらいました。

イベントは違いますが、彼の主張はこちらにもあります。
■これからの医療を支える薬剤師への期待(アピタル)

かかりつけ薬局や薬剤師に対して、一般の市民は「かかりつけ薬局ってなに?(存在に対する疑問)」からはじまるのに対して、薬剤師は「どうやったらかかかりつけ薬剤師になれるか?(調剤報酬をとれるか)」という発想と議論の違いがあり、議論のスタート自体が一緒に議論をすると頭のなかが混乱します。
これが制度はどうあるべきか?と議論した時に起こる空中戦の正体なのではないかと思います。

医療保険制度は、決して薬局を儲けさせるためのものでもないし、逆に利益を不当に搾取するものでもありません。私たちが病気になった時にみんなが医療を受けられるようにする仕組みのなかに存在するものです。また、違う言い方をすると、一般市民からみたら払うコストにうける薬局・薬剤師サービスに価値があるかどうかという視点でものを見ています。それは市場原理としては当然の考え方ですが、制度であったとしても、「安く良質な医療を受けたい」「もしサービスに満足するなら追加でお金をはらってもいい」というお財布感覚は必ずあります。「保険診療」という言葉で実際が見えにくくなってしまっているに過ぎないとも言えます。

このかかりつけ薬局は、厚労省からでている資料を見てみると、地域包括ケアの文脈のなかで地域で健康サポートをしていくことが求められています。つまり2025年問題のなか、私たち市民が望む医療の姿のなかにかかりつけ薬局があるということに気づくべきだと私は思います。この春の診療報酬改定は、単純にどのような選択をするかの岐路に立っているということなのです。

そこで、あるべき姿は?かかりつけ薬局とは?ということを議論しました。

なかなかこれまで考えてこなかったことを考えることは難しいですよね。やっぱりできない理由を探したり、自分を正当化させてしまうことはあると思います。私が投げかけた「変わらないといけないのでは?」これはみんなが考え始めるきっかけになった言葉かもしれません。

その時にでてきた言葉が「変わるということはどういうことなのか」「変わらないとどうなる?」「それは誰が?」「それは何が?」でした。

この時にそれぞれの感じる薬剤師の見え方が変化してきたと思いました。

そして議論のなかでは、機械化の未来も話をすることができました。技術革新が目の前にきた時に希望を見出すのか、それとも変われない自分を見るのか。まさに分岐点です。

「変わる」、「変わらない」、私はどちらの選択でもいいと思うのです。どうすれば自分の理想に近づけるのかを真剣に考えぬくことこそ必要なことだからです。そのためには、「今(現在)」をきちんと見つめるところから始めないといけません。

今回はそこまで議論で引っ張ることは時間切れで出来ませんでしたが、本来なら自分の姿がどのようなのか、向き合うことをしなければいけません。今回のゴールは「参加者が変化について何かを掴むという状態」を目指していたので目標には達成したかと思います。

思っていた以上の議論ができてよかったと思っています。この場の全てに感謝です。

やはり2時間は短いです。薬剤師がおもいっきりドロドロ自分の姿を見つめるワークしたいな〜、なんて思ってしまいました。機会があれば企画したいと思います。

今後はこれから考える予定です。

2016年2月7日日曜日

ほぼスカイツリーライン地域ケアコンソーシアム設立準備プレ大会



今日の目的は幸手の取り組みが、ほぼスカイツリーラインに伸びたときにどうなるかが気になって参加してきました。

前半は、浅草コンソーシアム、まるクリニック、松伏町めだかの学校、吉川市保健師の活動、幸手のそれぞれの取り組みをプレゼンしていただきました。

後半は、「今日の話をどう思ったか」「壁について」「今後について」をグループで話し合いをしました。

今回は、私にとって初めましての方がたくさんいました。しかし、意外なところで繋がっていたりして、やはり人はご縁ですね〜と思います。

時間がタイトだったのでゆっくりお話できませんでしたが、みなさん熱い気持ちをもって参加されています。話し出すと思いが溢れています。

まだまだ始まったばかりで、海のものとも山のものともわからないというのが、私の感想です。しかし、自分たちの地域をよくしていくために動き出したというのは大きな一歩です。

これから困難な道はあるかと思いますが、こういうのって笑って楽しくやる方が旨くいくというものだと思います。

ウルトラマンの歌を歌ってしまう保健師さんとか素敵です❤️(本当に歌っていました)

新しい取り組みはわくわくしますね。こういう雰囲気の中に参加できることが楽しくて仕方ありません。

医療が破綻すると?




マイケアカフェ2016冬に参加しました。テーマは「破綻からの奇蹟〜いま夕張市民から学ぶこと〜」 ということでゲストは南日本ヘルスリサーチラボ代表・鹿児島医療介護塾 まちづくり部長森田洋之さんでした。

森田さんとは約1年前に東金の地域医療を育てる会のイベントの時にお会いしていており、かつ本も読ませていただいていましたので、スムーズに頭に入って来ました。

このお話は2007年に起こった夕張の医療崩壊によって医療がどう変わったか?そしてその住民がどう変わったか?ということです。基本的には本の内容ですので、ご興味のある方は本を読んでいただく方が早いかと思います。
http://www.amazon.co.jp/破綻からの奇蹟-〜いま夕張市民から学ぶこと〜-これからの日本の医療・介護の話をしようシリーズ1-森田-洋之/dp/4990856503

私はお話を聞きながら考えていたことを書こうと思います。

「医療がなくなれば、医療費が下がる」

ある意味、正しいです。使うべき医療資源がなければお金はかかりません。

夕張では死亡率はほとんど変わらず、がんや肺炎、心疾患での死亡率は減少し、老衰での死亡が増加したといいます。夕張の高齢化率(48%)から考えると人生の最終段階の医療にお金をかけすぎていたと言ってもいいのかもしれません。ただ、言えるのは「夕張ではそうだった」ということです。夕張に限定して話をすると、「不必要な医療があったであろう」ということになります。しかしこれは高齢化率が何パーセント以上のときにそれを言っていいのか、エビデンスはありません。

夕張の事例を日本全体に当てはめるわけにはいかないので、私は「考え方の変化」についてずーっと考えていました。

医療崩壊後、住民の意識が変わったという話がありましたが、ここはどうしても理由がわかりませんでした。というのは人間の考えというのはそうそう簡単に変わるものではないです。なぜならば、その人の経験や環境によって考え方が徐々に作られていくからです。

特に「当たり前」であった「病院での死」がいきなり「在宅での死」を受け入れられるのでしょうか?極論をいえば東京でも医療が崩壊すれば、「在宅での死」を受け入れられる?それは受け入れざるを得なければならないことであり、喜んで受け入れているわけではないです。森田さんの話では、医療が崩壊して、在宅で看取るようになってから患者さんの笑顔がでるようになったという話がありました。どうしてなんだろう。。

もうひとつ医療提供者、介護提供者側の「考え方の変化」は何故変わったのか。この部分がどうしてもわかりませんでした。誰がその音頭をとったの?医師のみの介入でそうなるのだろうか。いま私の知る範囲では急性期病院の治療のゴールと在宅で見ている医師とのゴールは違うように思います。夕張の病院はなくても、他の市には病院があるのですが、ちゃんと在宅に返してくれる意思疎通の仕方ってどうだったのでしょうか。

また施設においても、なにかあったら困ると責任逃れするために、急変したら問答無用で救急車を呼ばれたりすることはよくあることだと思います。職員がその考えを変えるために医師が責任をもって対応すれば考えを改めるのでしょうか?それもわかりませんでした。

私は人にとって幸せとはなにかをよく考えます。小さな幸せ、大きな幸せ。幸せの形もいっぱいあります。夕張の人にとっての幸せと東京の人の幸せは必ずしも同じではないと思います。それって価値観なので、他人と比較するものではないです。

医療が有ると無いことでは幸せは異なるものかというと、無ければ残念だけど、有るからといって必ずしも幸せとは限りません。それだけ幸せも千差万別です。
余計にわからなくなりました。

データをもとにお話をされているので、森田さんのいうことはそのとおりだと思います。そのデータから見えないなにかというところではもう少しいろいろと調べてみたいです。

森田さんのお話は大きな示唆をいただいたと思っています。
「いま目の前の医療は本当に必要か?患者の幸せのためなのか?を問い続ける必要がある」ということです。

2016年2月1日月曜日

宮崎学さんの講演


もうひとつHRWネタいきます。
1日目に講演ありました。お話してもらったのは写真家の宮崎学さんです。

■宮崎学

この人は動物の写真を撮っているのですが、非常にユニークで本人は「自然界の報道写真家」と言っています。それはただ綺麗な自然の動物を撮っているのではなく、自動撮影カメラで人間が見えなかったものを見せてくれるものです。

クマやシカやサルやイノシシが最近出たというニュースを聞きます。先日も朝のワイドショーでもやっていました。皆さんはこれを聞いてどのように感じていますか?

なんでこんなところまで動物が下りてきているの?と思うかもしれませんが、実際は人間が想像している以上に動物は近くで生活しているのです。知らなかったので、本当に驚きました。



《シナントロープ》
(synanthrope, synanthrop。ギリシア語で syn-「共に」+ anthrôpos「人間」)
人間社会の近くに生息し、人間や人工物の恩恵を受けて共生する、野生の動植物を指していう。人工物には、庭、公園、田畑等も含まれる。人間の恩恵をうけて共生している 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/03/07 03:29 UTC 版) 



これはたとえば、雪の時にまく融雪剤の塩化カルシウムは動物たちのサプリメントになっており、動物がそれを舐めて体調が良くなったり、妊娠が持続できたりすることによって増えていきます。これは無意識間接的餌付けの一種です。

他にも稲刈り後の田んぼも、昔は落穂ひろいをしていたが、機械で刈り取ってそのままにしているとそこに鳥がたくさん寄ってきます。これも無意識間接的餌付けです。都会のカラスもそうかもしれません。

動物は生きていくために食べているだけなんですよね。

あと知らなかったのは、昔、森の木はマキなどの燃料に使われていたため禿山が多かったのが、いまはマキは使わなくなったため緑が増えています。なんだか信じられないです。

自然のチカラはなんて人間の想像をはるかに超えて逞しく、したたかなんだと思いました。この増えてしまった動物たちは餌をもとめて人の近くにやってきて、集団で作物を荒らします。これは誰のせいなんでしょうか?

私たち人間たちのせいです。動物にはなんの罪もありません。人間ってなんて身勝手なんでしょう。自分たちのしてきたことに全く関心をもっていません。自分たちの見たいものだけしかみておらず、動物たちの生態を見ていません。

いまなにが起こっているかを知るためには、自分が見ているものが正しいのかを疑い続ける必要があるのではないかとおもいます。

これは自然の話だけではなく、社会で起こっていることも同じだとおもいます。
とても象徴的なお話でした。


キノコのけんちゃんビジョンをつかむ


ヘルスリサーチワークショップの発表と自分の感じたことを書こうとおもいます。

プレゼンテーションタイトルは、「キノコのけんちゃん ビジョンをつかむ」です。はじめにスライドを使った寸劇+解説という流れで5分のプレゼンテーションでした。

主人公はグループワークで使っていたピンクのキノコです。
キノコのけんちゃんがひきこもりになってしまい、インターネットでみつけた「ふらっと」でエリンギおじさんに出会い、自分の価値をみつけ「ハンドマッサージで人を癒す」という自分のビジョンをつかむまでのストーリーです。グループメンバーのロザリンのひきこもり・不登校自立サポート事業での本当にあった事例を下敷きにしています。
http://www.h4j-hikikomori.blogspot.jp/
https://www.facebook.com/hikiyaya



第1段階:自分自身もビジョンも見えない
キノコのけんちゃんは自分と他者との間で、みんなと違うことに劣等感があります。
さらにその違いを親にも指摘され自分を失くしてしまいます。
そしてひきこもりになっていきます。

第2段階:気づく
ひきこもりのけんちゃんは偶然インターネットで「ふらっと」という変わったキノコが集まる場所をみつけ、そこで他者と交わるようになります。
そしてふとした言葉で、知らなかった自分に気づきます。

第3段階:ビジョンをつかむ
自分の違った面に気づき、視点が変わってきたけんちゃんがどんどんと気づきがふえていきます。そしてけんちゃんがもともと好きだった「人を癒す」ことと自分の特徴がつながり、ハンドマッサージをして人を癒すことビジョンをみつけました。

というものです。

個人のビジョンをつかむまでのプロセスを議論していきましたが、グループや組織であっても共通する部分が多いと感じています。

組織もビジョンが見えないときは、混沌としています。前には進まない状態です。それはそれぞれ見えているものが違ったり、言葉の意味づけが違ったりのなかで方向性も定まりません。

ところが、あるとき「!」と気づく瞬間を迎えます。このときには情報ということがキーワードで、「知る」・「理解する」・「他者とつながる」という要素がどんどん蓄積されていき、突然つながる瞬間が「!」なのです。

この要素がたくさんないと「!」は起こらず、どれかが欠けていても「!」は起こりません。

一つ「!」があると、それまでかみ合わなかったものが噛み合っていきます。「それはこういうことかな?」「そうそう」「もう少し」「全然違う」
すり合わせしながら気づきが増えていきます。

そう考えると組織であっても、個人であっても「自己と他己」との関係のなかでビジョンが生まれ、ビジョンは行動していくための地図や設計図なのかもしれません。






ワークを終えてあらためて「ビジョン」を考えてみました。
今回はビジョンをつかむまでの一つのプロセスをみんなで考えていきましたが、このプロセスは人によってどの段階かどの程度の気づきを得ている状況なのかバラバラなんですよね。このプロセスは間違ってはいないと思うのですが、人が多様である故にそう簡単にはいかないと思っています。地域包括ケアはまさにその典型だとおもいます。

私は国から出ている地域包括ケアの図に違和感がずーっとありました。それは在宅で過ごすことが良いことのように描かれているからです。それって価値観の押し付けじゃない?

確かにいまのままいったら我が国の社会保障は破綻してしまうことは容易に想像できます。しかし国のいうまま単純な地域包括ケアの推進が解だとは思えません。それははじめのキノコのけんちゃんのように夢すらもてていない市民もいるし、新種のキノコ市民もいるでしょう。新種のキノコが増えたらキノコの概念もキノコの生きるみちも変わってきます。

やはり国は良い未来をみせるのではなく、想像される良い未来と悪い未来までの考えられる道のりだけであとの選択はキノコ自身で考えるべきだとおもいます。キノコが考えられるようになるためには、やはりはじめのストーリーの「知る」「理解する」「他者とつながる」が必要なのだとあらためておもいました。


やっぱりピンクのキノコに毒されました。。。