2016年6月29日水曜日

相談できるお医者さん


みのりカフェのコーヒーとスイーツです。


第5回市民の医療参加を創る会をみのりカフェで実施しました。
今回の企画は、現在の診療報酬制度改革は病床を減らし、在宅医療を増やしていこうという流れがあります。その誘導のために、今年の4月の診療報酬改定で紹介状なしの大病院受診時の初診・再診において5000円以上かかるようになりました。その5,000円をどう市民はどう考えるのか?ということを考えたのがきっかけです。

5000円を払ってまで大病院に行くことは患者にとって合理的な行動ではないのだろうか?という問いをたててみんなで考えてみました。

患者は「胸が痛い」とか「頭が痛い」「熱がある」など何らかの症状があってはじめて医療機関にかかります。その時に「もしかして。。。、ひょっとして。。。」と不安になるとき、近くのクリニックに行こうか、大病院にいこうと思うか。その時に5000円を払って行くか行かないかはその人の価値観次第だと思います。

それ以前に若い時はそれほど頻繁に医療にお世話になることはなく、巷に溢れる情報は正しい情報とトンデモ情報が混在しており、市民はどれがどれだかわかっていません。

その一つの解決策として総合診療医というものがありますが、日本ではまだ数が少なくどこに行っても会えるものではありません。

もう一つの視点である医療保険制度で考えてみます。今の社会保障制度は国が借金をしながら支えています。高齢化や医療技術の発展によって医療費はどんどん増えています。このままでは国民皆保険制度が破綻しかねない状況です。そのために国は病院中心から開業医中心へとシフトしようとしているのです。

総合診療医というものがどんなものなのかを相模原市立青野原診療所の菅野先生、そしてこのような話になった背景を東京財団の三原さんにお話していただきました。

(東京財団 三原岳)

(相模原市立青野原診療所 菅野哲也)



参加者の方は医療者の人もいましたが、一般の市民で医療に関心のある人や医療以外の専門職がほとんどで議論をしました。



今回改めて、一般の市民は医療に対する不信ってやっぱり強いんだろうなと思いました。自分の身近に信頼しているお医者さんがいないのでしょう。
「信頼できるお医者さんを作ろう」というタイトルにしましたが、結論はその道のりは長いということです。しかし、だからといってそのままでいいわけではないし、誰かが何かをしてくれるものでもないです。

だったらどうすれば!

ここから先は私見です。「プライマリ・ケアって誰が担うものなんでしょう」

「プライマリケアは、ケアやゲートキーパー以上の役目であり、最初の第一線としてアクセスされ、継続的・統合的に調合されたケアを提供する保健制度の中心的な役割である。必要とされた際の第一線コンサルタントであり、短期の疾病に限らず個人の長期的な保健状態を診る」とWHOは定義しています。これはプライマリ・ヘルスケアの一部として位置付けられています。

もしかしたらプライマリ・ケア担当は医師でなくてもいいのかもしれないというのが私の意見です。しかし医師には医師にしかできないことがあります。それは診断と治療です。

では、総合診療医以外の専門医の資格しかない医師がプライマリ・ケアができないのでしょうか。それはそんなことはないです。ただ、トレーニングされた専門家であるためより信頼度が増すだけだと思っています。

よってその場の役割で時に医師が、時に看護師が、時に薬剤師が担当してもいいのではないでしょうか。そして多職種で連携していく仕組みを構築するこれが現場でのあり方なのかと思っています。下手したら町ぐるみかもしれません。

しかし、診療報酬制度の話でいうとこの仕組みを金銭面での誘導だけでは、どうにもならないと思っています。制度なのでちゃんとルールをつくらなければなりません。

フリーアクセスのいいところは個人の意思で医療機関を選択できることです。しかしそのデメリットはどこを選んでいいのかわからないことです。逆に初めに開業医にいく大病院ほど待たない。デメリットは病院に行くにはなんらかのハードルがあることです。日本なら紹介状を書いてもらう、若しくは金銭的に多く払わなくてはなりません。どちらも一長一短です。

では、自分のこととして考えてみましょう。私はそもそも医療は不確実性の高いものだと思っています。医療技術の発展によって人の寿命は著しく伸びました。しかし人はいつか死ぬので、医療が寿命をいつまでも伸ばしてくれるものではないです。変な医者に先にかかると手遅れになるといいますが、病院にいったら確実かというとそうでもないです。
そう考えると、自分は自分の体のオーナーとして自分が考える健康を自分で作りたいし、ちょっとした軽い相談は自分の仲のいい医者に軽く相談すると思います。

一般市民の場合、その軽く相談するという場所を早く見つけることが鍵なのではないでしょうか。その一つの手がかりが総合診療医であり、地域とのつながりを考えてコミュニティ活動をしている医師を探すことなのでしょう。

いずれにしても、自分がどんな形で医療を使っていくか(←この発想が大事です)をきめて方法を自分で模索しながら、皆保険制度を守りながらどのような方法がいいのか考えていく必要があります。

2016年6月27日月曜日

医療事故調査制度


日曜日に午前・午後とハシゴでお勉強は嫌いじゃないけど、なんだか慌ただしくて腰を据えてお勉強できません。

午前中は危機管理システム研究学会の年次大会に参加しました。私はメディカルリスクマネジメント分科会で活動しており、今年度の活動報告をメンバーがするのでその応援に行ってきました。報告内容を簡単にいうと日本医療機能評価機構における「医療事故調査収集等事業」で収集・公開されている医療事故報告を分析し、提言をまとめるということをしています。今回はその途中経過の発表です。

危機管理システム研究学会

目的が発表の応援なので気楽に他の発表を聞いていましたが、なかなか興味深かったです。明らかに自分の専門ではないのですがわかる部分もあるのでなるほどねと思って聞いていました。人工知能による金融システムのリスクだったり、現在の日銀の施策など最近の興味の部分とかぶるので一つ視点をいただきました。


午後は医療の良心を守る市民の会の10周年シンポジウムに参加しました。今回のテーマは「医療事故調査の現状と今後」です。

医療の良心を守る市民の会


医療事故調査制度の6月24日にこの医療事故調査報告制度に関係する医療法施行規則の一部を改正する省令がでており、変更内容や現状などを聞きたいなと思って参加してきました。

医療事故調査制度


この制度がスタートしたのは2015年10月からです。制度は医療に起因し、または起因すると疑われる死亡または死産(管理者が予期しなかったもの)を院内でその事故調査をし、医療事故調査・支援センターに報告しなければならないというものを病院、診療、助産所の管理者に義務づけるものです。医療事故調査制度の目的は「医療事故再発防止」なのですが、医療者側と患者側の対立構造があると責任追及や訴訟の話になりがちです。そのためこの制度の話をすると医師法21条の改定の話題もでますが、今回はその部分の変更はありませんでした。


医師法第21条 
医師は、死体又は妊娠四月以上の死産児を検案して異状があると認めたときは、二十四時間以内に所轄警察署に届け出なければならない。

(興味のある方はググっていただけるといろいろと医療事故との関係の話題がでてきます)

今回の改正は方向的には制度の運用によって見えてきた問題に対応するかたちですが、いろいろと医師会等の動きがあります。また報告義務としている死亡もまだクリアとはいいきれないと思います。

「予期せぬ人の死」は医療者と患者家族では捉え方に差があります。途中経過にきちんとしたインフォームド・コンセントが行われていれば「予期せぬ」ということはありません。しかしそれがうまくいっていないから問題がおこるのです。この制度では死亡または死産を対象としていますが、医療事故の問題はそれ以外もたくさんあります。

リスクマネジメント的発想でいうとミスやエラーはかならず一定の確率で起こります。事故は誰か一人が原因になるということはありません。何人もの人のちょっとした行動の積み重ねが事故へとつながるのです。それは医療であっても同じだと思います。しかし医療と他のことと違うのは、人の健康や生命に関係することなのでミスは可能な限り少なくする、起こったことにたいして同じミスは繰り返さないということをしていかなくてはなりません。しかし今もなんでそんな単純なミス?と思うような医療事故が起こってしまうのでしょう。やはり病院組織に問題があるとしか考えられないです。

やはり医療事故は悲しい話です。懇親会の時もご自身の体験についてお話を聞かせていただきました。頑張って真摯に仕事をしている医療者がいる反面、嘘をついたり隠したりする人もいるのは事実です。

医療者と患者がともに向き合いお互いを理解していくプロセスを本当につくっていかないといけないのだと改めて思いました。


この医療事故調査制度に関しては総合確保推進法のその他の項目に載っていたりするので、しばらくは目が離せないところです。

総合確保推進法


2016年6月24日金曜日

災害時のMR活動


梅雨の晴れ間の空です。

熊本の震災の報告会に参加してきました。今回のテーマは災害時のMR活動です。
自分はどうしても災害時に現地に行くことができないので、遠くから支援をすることを選択しましたが、現地に入って支援をする人は本当に行動力のある人だと私は思っています。また、被災地で仕事をしている人たちも自分たちの家族もありながら、地域のために一生懸命仕事をしている人たちに心から敬意を表したいと思います。

熊本の話は何度か聞く機会もあったので、今回は製薬企業のMRがどうあるべきかということを考えていました。被災地での様々な活動やみんなの意見を聞いたりするなかで、明確に思ったことがあります。それはMR活動云々ではなく、製薬企業が災害時の情報提供の姿勢を企業と出していないことに問題があるということです。

MRはやはり製薬企業の社員であり、組織として動くことが求められます。ある意味、動けないのは企業が自分たちのことだけしか考えていないからです。では現場のMRに動けといえばいいのかというとそうではなく、情報発信はMR以外でも方法はあるのではないかと思うのです。例えばSNSだってあるし、Twitterだってあると思います。別に自社に限った話ではなく、一般情報として添付文書等の情報からも発信できるのではないでしょうか。また流通情報も現地にいなくても本社でできるはずではないでしょうか。

自社のBCP(Business continue planning)は自社のことだけを考えていけばいいわけではないです。特に製薬企業は医薬品を患者に届けることは使命です。リスク・マネジメントは事業を継続することが大切なことで、災害のようなクライシス・マネジメントであっても自分たちの被害状況が把握できた後は速やかに企業としての使命を果たすべく行動していくのが鉄則です。会社ができていないのにMRができていないというのは本当に現場が可哀想です。

もちろん、現場のMRがすべて使命感をもって仕事をしていたとも思ってはいません。他人事のような態度だったMRもいることを知っています。被災地のために何かできないかと考えボランティアや現場を回った人のことを色々と言っていた人のことも知っています。だからといって、そんな人に気をとられる必要はまったくないと私は思います。そもそもそんな人は通常のMR活動においても、何も現場の問題について感じる力のない人だと私は思います。

医療機関だけなく、町や避難所の様子をみて、「ここにいる人たちはどんな生活なんだろうか」「体調はどうなんだろうか」とか思いを馳せてみることができる人は普段のMR活動のときに医療者と話をするときに、同じような視点で会話ができる人だと思います。そういったことができない人が多いからMR不要論がでるのだと私は思います。災害時にちゃんといち早くそれに合わせて情報提供ができたMRもいたのですから、その人は普段から考えて仕事ができている人なんだと思います。

結局は一時が万事なのではないでしょうか。

また、製薬企業がこの災害に対して多くの義援金を出しています。その金額は非常に大きな金額です。もちろんお金をだしたからえらいわけではありませんが、あまりにも社会貢献の仕方がお粗末なので、もっと考えるべきではないかと思いました。







2016年6月20日月曜日

食べたいものは食べたいんです



この写真はInstagramに載っけた写真です。身近なものを撮ってはアップしています。
それにしても私は甘いものが好きで、よくいろいろ食べています。
和も洋もどちらも好きですね。ついつい手がでてしまいます。今日は自分の味覚と体調の変化について書いてみます。

私は甘いものが好きと書きましたが、私の場合、結構体調に左右されるようです。本当に体調がいいときと、何かの調子が悪いときでは好みの味がどうやら違うというのは自分でわかっています。食事が取れないくらい体調が悪いときはプッチンプリン®しか受け付けなくなるし、疲れているときの甘いものが欲しいときのチョコレートとか、生理前の体調不良時はシュークリームやらカスタードがこってりなどいろいろ好みは変わります。好みは違っても体調によって食べたくなる種類が違うと感じている人は多分他にもいると思います。

だからといって欲求の赴くままに食べると後悔することが多く、私は食べ過ぎて気持ち悪くなってしまいます。食べちゃう自分が悪いと思わないで、そういう自分(甘いものが衝動的に食べたくなる自分)がいることに気づくことが大事だとおもいます。そこで、冷静になぜこんなに気持ち悪くなるくらい食べたくなるのだろう、自分の体調はどこが良くないのだろうと考えることが必要です。そしてその原因を理解し、その自分なりの原因となるものに対する対応をきちんとしていくことが自分の体調をコントロールすることになります。

食べ過ぎて「私ってなんで食べちゃうんだろう。ダメだな。」と思って「食べちゃいけない」と思うと余計に過食になります。それは良い悪いは関係なく、その甘いものに意識が集中するのでどんどん気になります。しかし、食べちゃう自分に集中するのではなく、原因に意識を向けるとそちらの改善に向かいます。

この方法を知っていると、ちょっと食べてしまっても自分のちょうどよいところにもっていくことができます。一度試してみてください。

あ、ケーキを食べた言い訳ではないですよ。




2016年6月18日土曜日

「ねばならない」なんてない


これはある日の朝の写真です。最近、空を見上げて曇って面白いな〜って思っています。さて、今回は「ねばならない」がテーマです。なんとなく、ふと浮かんだので書いてみます。

実は10年以上前に香山リカさんをイベントで呼んで講演をしてもらったことがあります。それで、そのときのテーマが「ねばならない」からの脱却ということでお話をしてもらったことを思い出しました。「ねばならない」に縛られているなって苦しいよねって思ったので書いてみようと思います。これは他人事ではなく私も「ねばならない」に縛られていた一人だと思っています。

(「ねばならない」じぶん)
自分のことでいうと最近でこそ自身との対話で「ねばならない」という言葉があまりでてこなくなったのですが、昔はよく「〜は◯◯しなければ」とか「〜は△△であらねばならない」という思考がありました。〜に、他人が入るときもあれば、自分が入るときも両方ありました。

若いころはそういう思考を自分でしていることにすら気づいていなかったです。勉強をするのは当たり前だったし、規則正しい生活をするのも当たり前だと思っていました。ある意味とっても優等生だったと思います。多分それはとてもしつけに厳しい環境にあったのでやるべきことをやれば自分は好きなことができるというメンタルモデルを持ってしまったのでしょう。そのせいで、社会人になってからも自分の自由を守るために規則やルールを守るのは当たり前という考えになり「守るべきである」と考えてしまう。ルーティンワークはこなして当たり前なので「こなさなければならない」と自分で自分に言っていました。

その結果はやっぱりとっても優等生の結果です。振り返ってみると自分にプレッシャーをかけて実はしんどかったです。振り返ると本当によく頑張ったと思います。若かくて体力もあったし、でも自分を客観視できるほど余裕もありませんでした。

ところがはじめはうまくいっても、社会となると多様な人々と価値観の違いに自分ががんじがらめになってしまい、完全にダウンしてしまいました。多分こんなストーリーはどこでもあるんじゃないかなって思っています。

女性の場合だと、「結婚しなければならない」「子供を産まなければならない」「家事をしなくてはならない」「子育てをしなけばならない」「介護をしなければならない」などいっぱいあると思います。こんないっぱい「ねばならない」があったら本当に苦しいです。

それも一つではなく複数同時にやってきたりとか、最近では社会的にも女性の活躍を要請する社会的な流れもあります。ただただ好きでやっていれば別にいいのですが、どうしても生物学的に女性である以上、妊娠出産の時期などの限界もあります。男性であっても自分自身で「ねばならない」と自分の価値基準で思い込んでいるものもたくさんあるのではないでしょうか。

(「ねばならない」なんてない)
でも、「ねばならない」ものなんて本当にあるんでしょうか。
その「ねばならない」もののなかで、自分が「したい」と心から思えるものはいくつあるのかと考えると、残るものはほとんどないのではないでしょうか。また、「ねばならない」と誰がいっているのでしょうか。自分がそう思っているならしたいもの以外はしなくていいはずだし、他人だったらその期待になぜ応えなくてはならないのでしょうか。そうやって考えていくと、あれ?ってことになると思います。自分が望んでおらず、誰かの期待に応えようとしている自分の存在に気付きます。

でもその「ねばならない」と自分に適度にハッパをかける程度なら悪いこととは思っていません。私は頑張って多くの努力をして、いろんなスキルや知識を身につけることができたから今の私がいると思っているからです。でもその反面、頑張りたいけど、頑張れないときもある。忙しくて立ち止まって考える余裕が全くないときもあります。そうなってしまうと自分の狭い視野の中でひたすら頑張りすぎてバーンアウト。私も経験者です。「ねばならない」がいっぱいになって本当に苦しくて仕方ない状態になります。

不思議なもので心と体の状態は影響しあいます。この状態の体の状態を見てみるとあちこちに力が入ってガチガチです。歯をくいしばり、眉間にシワがよって、肩肘張っています。肩こりなんかもすごいのではないでしょうか。いわゆる力みすぎです。力を発揮したりストレスに対応するためにはゴムまりのような柔軟性が必要です。これはスポーツだけではなく、心も同様です。身体的な変化に気付いたら深呼吸をしたり、ストレッチをしたり、好きなことをするなどして体の力みを取る必要があります。これはレジリエンスを高める一つです。

(ま、いっか)
「ねばならない」と思ってやっている自分を客観視したときに、その事ができなかったら人間失格なのでしょうか。誰かに非難されることでしょうか。命を取られるほどのことでしょうか。それは全くないです。何かを恐れている自分がそこにいるだけです。「ねばならない」と頭に浮かんだときに、「なぜならば、〜〜である」とそこに理由となる言葉を当てはめてみてみるとわかると思います。3回くらいその理由を深堀するとなんとなく見えてきます。

それに気付いたら、私が自分で自分にいう言葉が「ま、いっか」「命までは取られない」です。人によって言葉は違うと思います。私の場合は「ま、いっか」です。だんだん「ま、いっか」が上手に使えるようになりました。






2016年6月14日火曜日

Learn Do Shear 無事終了


無事にLDS終了しました。

5時間の長丁場は若くないので終わってぐったりでした。

今回のテーマは「医療を料理「けんこうキッチン」~新宿のカオスパワーで未来の生き方をRe-imagine~」でした。
タイトルだけ見ると「お料理教室?」みたいですが、みんなで健康とは何かをそれぞれで考え、作り上げていくワークショップです。

会進行中の様子はこちらのTwitterのつぶやきをごらんください。

今回の一番の気づきは、みんなが考えている健康とは、笑顔だったり、ご飯が美味しく食べられたり、仲間と一緒のだったりするイメージだったのですが、やっぱり医療から見た健康とは大きく違うということです。医療からみると病気という基準をつくってそこに入らなければ健康という感じです。診断基準によって病気という概念が作られています。

診断基準ってある病気の特徴的な部分の一部を取り出して判断するものにすぎません。そりゃ、診断基準は必要です。だいたいどのくらいが病気なのかがわからなければ治療ができないので困ります。しかし、どうも診断基準に数字などがあるとそれが一人歩きしてしまっているように見えます。今回はその基準を云々いうのではなく、基準ばかりに目がいって何か大事なものを忘れてはいませんかということをお伝えしたいと思います。

健康は、他人の基準ではなく自分の基準で健康を選択していくことがとても大事です。(ただし、勝手な思い込みやトンデモ医療の基準はダメですよ)診断基準よりもよくなかったら、健康ではない確率が高くなっており、それを分かった上で自分が今を「自分で」選択しているということに自覚的になることが大事だと思います。自分で選択しているにもかかわらず、文句をいって後から「あの時早くから気をつけておけば・・」というのは違いますよということです。

でも、今回のワークではこの部分は掘り下げていなかったので、みんなが考えている健康ってちょっとづつちがうんだということだけでしたが、そこに気づいただけでも大きな変化があるのではないかと思います。こういう話は医療者からの病気のレクチャーではあまりしないですよね。本当は自分で選択している今に気づくことから健康づくりが始まるのだと私は考えています。他人から押し付けられる健康は私の健康ではないのです。

人の価値観によっても健康は異なります。日本人は日本人の文化のなかで健康や幸せという価値観を形成していきます。日本は島国のせいもあり、やや日本人は日本人ならみんな同じのように考えているように見えます。でもみんなちがうんですよね。そのみんな違った健康観のなか、この国のヘルスケアはどうあるべきか、これは私のテーマとしてこれからも考えていきたいと思います。


2016年6月9日木曜日

プロフェッショナル・オートノミーってどうよ


紫陽花もこんな色と形のものがあります。とってもかわいいですね。

最近やきもきしている問題があります。それは医師の専門医制度が今年スタートだったはずが、遅れていることです。

先日、「新たな専門医の仕組みへの懸念について」(要望書)が出されました。

それに対応して「新たな専門医の仕組みへの懸念について」(要望書)に対する厚生労働大臣談話が出されました。

実は要望書をだした人たちは専門医機構の社員という、、、

さすがにこの話は呆れました。

新たな専門医制度の仕組みについて

こちらにあるとおり、そもそもの視点は「専門医の質の向上」です。もちろん医師の地域偏在は現状としての認識はあった上での質の話だったはずです。
それがやれ認定のための研修施設が云々だとか、地域医療が云々だとかもういいです。

医師のプロフェッショナル・オートノミーという言葉を出して、結局「自分たちの好きにさせろ」と言っているようにしか聞こえないのが残念です。医師のプロフェッショナリズムにおける自律と、職業の自由と一緒にして議論するのは自己矛盾がでると思います。

なぜならば、医療の場合、もともとパターナリズムは医師の患者に対する思いやりや奉仕の心です。今は上から目線的に捉えられていますがけっしてそうではありません。医療の場合、プロフェッショナルな医師が患者に対して誠実であろうとすれば職業の自由という個人の自由に関する議論は本来成り立たないと私は考えます。パターナリズムという部分は省いたとしても、患者のため以外に利己主義な高い技術を持っている人をその職業のプロフェッショナルと呼ぶかというと呼ばないと私は思います。

とはいうものの、いまのご時勢、患者への奉仕をベースにという考えは古いし、職業としての自由は当然侵害してはいけないと考えますが、医療は公的な保険で成り立つ以上一定の制限は受けることは甘受すべきではないでしょうか。もちろん、がちがちに縛られることには反対します。現在の医療において「質」ってなんでしょうね。これは保険でカバーされる部分の話と同時にするべきだと私は思います。そうしないと客観的な評価ができないからです。

なんだか、悲しくなるような議論が続いています。患者や市民不在の議論はやめてほしいと思う今日この頃です。

2016年6月8日水曜日

健康とレジリエンス


今回の学会のワークショップはレジリエンスのセッションに参加しました。
清水さんのワークショップはちゃんとフルバージョンで出た方がしっかり自分に落とし込めるのですが、今回は3時間。それでもしっかり持ち帰るものはできました。

レジリエンスとは何か
これは適切な日本語訳はありません。Wikiによると「精神的回復力」「抵抗力」「復元力」「耐久力」などとも訳される心理学用語である。心理学精神医学の分野では訳語を用いず、そのままレジリエンス、またはレジリアンスと表記して用いることが多い。「脆弱性 (vulnerability) 」の反対の概念であり、自発的治癒力の意味である。」https://ja.wikipedia.org/wiki/レジリエンス_(心理学)

自分なりにレジリエンスを考えてみたときに挙げられる表現は、柳、稲穂、アメーバー、ホメオスターシス(恒常性)、1/f(ゆらぎ)などなど

健康は一定幅のなかで均衡を保ち、多少調子が悪くてもそれは誰にでもある調子の波で、ある線を越えると病気(異常)という状態になります。この幅のなかに入っていれば健康ということになります。この平常の波のなかにいることができるかを考えていくことが大事になります。

まず自分自身の健康を考えたとき、どのような状態が下がり過ぎず、上がり過ぎない状態ってどのくらいでしょうか?自分で自分の体調について客観的に考えたことがあるでしょうか。よく健康の議論をすると、健康かそうではないかの二極化した議論が多いのですが、その間も当然あります。そもそも健康は一定であることはないのです。一定ということはある意味、危うく、環境の変化に対応ができません。ある一定幅で揺らぐことによって変化に対応しているのです。

この緩やかなゆらぎのなかで、一定幅を超えないための自分でできることを考えていく。それが健康を守る方法なのです。精神と身体は繋がっているので、常にバランスをとる方法は自分でしか見つけられません。そのうちこのワークショップもやりたいな〜なんて考えていますが、やりたいことだらけでいつできるかわかりません。気長に待っていていただけると嬉しいです。

レジリエンスは別に人間だけに限ったことではなく、組織やまちづくりにも考え方は応用できると私は思っています。その話はまたそのうち書きたいと思います。



2016年6月7日火曜日

学会運営と製薬企業の情報提供を考える


2016年6月3〜5日にアクトシティ浜松で第10回日本緩和医療薬学会年会が行われました。私は4日、5日と参加しました。いくつかのセッションに参加したのですが、一つにできないので、分けてアップします。

この学会は友人の川村和美さんがプロデューサーでして、「ともちゃんの好きそうな内容をいっぱいやるから来て」と言われて参加しました。彼女と私は経営倫理、薬剤師、教育など共通する部分がいくつかあります。まったくもって面白いものがいっぱいでした。

中でも一番よかったのがこれです。

  

<医療系学会は派手すぎる>
今回のパネラーからの指摘もありましたが、医療系の学会って派手です。私は仕事柄医療系の学会からスタートしたので、それが当たり前だと思っていました。
ホテルの宴会場を使い、きらびやかなセッション、派手な演出、ランチョンセミナーに懇親会。一体いくらかかっているのでしょうか。数千万円はくだらないと思います。

それに対して製薬企業を始め、関係している企業が協賛金を払っています。
私がMRをしていたころは抄録の広告代として数万円を当たり前のように依頼されていました。大きな学会となるとブースの展示ということでブース一コマうん十万円の×コマ数です。他にも寄付というものもありました。一応、趣意書は渡されますが、いつも不機嫌そうに話をする先生が、そういうときに限ってニコニコ声をかけるんですよね。私も、「まな何かお願い事だな」とわかって話をすると「あ、やっぱり」という感じでした。

プロモーションコード、公正競争規約が年々厳しくなっていくうちに少しづつは変わっていっているのですが昔は一体どんだけだったのでしょうね。透明性ガイドラインが出てからも抵抗をするのは医療者側という感覚を私は持っています。仲のよい医療者にはこの実態を嫌だということを話していたのですが、なかなか声高にいうことは難しかったです。ところが、今回は学会のあり方を考えるということを医療者側から問題提起をしてくれたのです。

<製薬企業は医療者の財布じゃありません>
私は常々安易に製薬企業からお金をだしてもらうのは当たり前という考えをすててもらいたいと思っています。しかしその考えはなかなか受け入れてもらえないと思います。学会協賛のあり方を考えたとき、製薬企業が突然協賛金を払わないと言ったら医療者側はすぐに納得するでしょうか。協賛金を払って横並びで採用を確保している会社があるとしたら簡単に切り替えられてしまうでしょう。

それに対してMRはどうにか自分の売り上げ成績を維持したいと考えるのは当然だと思います。私たちの時代もだんだん経費が厳しくなってきた時代だったので、いままでどおりの分を払えなくなっていました。そのときに医療者に交渉することは何かというと、守りたい品目と古くて営業成績にはあまり関係のない品目を考えながら、依頼してきた医療者と交渉をしていきます。断り方にいろいろあるのですが、その学会の協賛をしない代わりに別のことで(たとえば他の企画の勉強会など)経費項目を変える方法やもう切られていいと思ったら断るということを考えます。

よく考えてみたら、これはおかしなことですよね。確かに似たような薬効のものはあるのですが、それが患者にとって一番合っているものかもしれません。それをお金の都合だけで切ってしまっていいのでしょうか。実際にはそれほど影響がないと言ってしまえばそうなのかもしれせんが、本来の医薬品の情報提供のあり方からすると明らかにおかしなことです。それをお金で簡単に変える医療者も医療者だし、それをよしとして自分の利益だけを考える企業も企業だと思います。

今回、学会側からそういうのやめませんか?、もっと健全に学術活動の学会にしませんかと運営面から少しずつ変えたのがこの学会です。


 

これまでのやり方を変えたので本当に和美さんは苦労していました。できるだけお金のかからない方法を考えて、ランチョンではなくスイーツセミナーにしてそのスイーツは学会費からの捻出にしています。学会を企業の情報提供の場として時間を売る方法を提案しました。とても画期的です。それでも彼女がやりたかったことの全てには到底いくものではありませんでした。

<製薬企業の真っ向の情報提供活動とは>
もし、これがほかでも同じようになっていったら?どうなるでしょう。
製薬企業は、学会にふさわしい情報提供をしていく必要が出てきます。自社製品に都合のよい内容を伝えるのではなく、客観的かつ臨床現場にあった情報を伝えなくてはなりません。ふと、今のMRのレベルではそれは対応できないかもしれません。なぜならば、添付文書の内容しかMRは伝えられないプロモーションコードになっているからです。このプロモーションコードについてはまた改めて詳しく書こうと思いますが、学会で議論をするには添付文書の内容を超えて議論すべきときにそれが邪魔になってしまいます。こういったわけのわからないルールも変えないと真っ向の情報提供活動はできません。

製薬企業にとって情報提供活動は使命です。適正使用情報ってなんでしょうか。添付文書の内容だけなんでしょうか?それは違うと思います。患者にあった使い方なのではないでしょうか。添付文書の内容は承認内容に関係する分だけです。しかし医薬品は生体内で様々な働きをします。それを考えたときに承認内容に関する部分だけでいいはずがありません。それを学会だからこそきちんと伝えられるのではないかと私は思います。

まだまだ議論は始まったばかりなので、これも多くの人と議論したい内容です。

2016年6月4日土曜日

かかりつけに何をもとめますか?


このお花は通勤途中に咲いていたのでパチリってした花です。

なんかあちこちで「かかりつけ医」だの「かかりつけ薬剤師」だの云々ってあるので、自分なりに紐解いてみたいと思います。

かかりつけという言葉を調べてみました。
三省堂大辞林からすると、「掛かり付け:いつも診察してもらっていること」ということなので診察なのでお医者さんのことですね。

もう少し言葉を紐解いてみます。
【かかる】
これがいろんな漢字がありますね。
掛かる、懸かる、罹る 

(意味がいっぱいあるので転記ではなくリンクにします)

【つけ】
[名]
1 支払い請求書。勘定書き。書きつけ。「会社に―を回す」
2 その場で支払わないで店の帳簿につけさせておき、あとでまとめて支払うこと。また、その支払い方法。「―で飲む」「―がきく」
3 運。つき。つごう。
4 (ふつう「ツケ」と書く)歌舞伎で、立ち回り・駆け足・打擲(ちょうちゃく)の音などを表現し、また見得(みえ)を印象づけるため、舞台上手の横で、役者の動作に合わせて板を拍子木に似た柝(き)で打つこと。また、その拍子。上方では「かげ」という。付け拍子。
5 「付け帳」の略。
6 手紙。
[接尾]動詞の連用形に付いて、いつもそうしている、…しなれている、などの意を表す。「掛かり―の医者」
「途中から―が悪(わり)いから」〈魯文・西洋道中膝栗毛〉
「此中(こんぢう)―をよこした女(あま)よ」〈滑・浮世床・初〉
づけ【付け/▽附け】

[接尾]日にちを表す数詞に付いて、その日の発行・発令、または差し出しである意を表す。「四月一日―の発令」「五日―の書簡」


つまり、かかりつけとは罹りつけのほうが正しいのでしょうね。
罹るというの病気になるということですので、だから「病気になったときいつもそうしている=いつも病気になったらみてもらう」という意味なのでしょう。

あらためて考えてみると病気になってもらうということがない人にとったら、いつもっていつ?なんて思ってしまいます。

まあ、言葉あそびは置いておき、制度・政策がらみで「かかりつけ」って言っておいて本当のところ国は何がしたいの?って思っています。アクセス制限がしたいならそう言えばいいのに、言わないからなんだかしっくりこないんですよね。そういうところが面倒くさい。言いたいことがあるなら言っちゃえばスッキリするのね。

また今回、勉強会でこの言葉について議論をしたのですが、かかりつけ医って「長く継続的に付き合っていく医者」という話はでたのですが、どんな医者というところにはなかなか辿りつきませんでした。なぜなのかなって考えたとき、同じところにいくメリットを市民が感じていないんだろうなって思います。多くの場合、軽症のうちに医者にいくと思います。そうするとほとんど薬で症状が改善します。そうなる技術の差というよりはコミュニケーション能力だったり、地理的に便利だからという理由で医者を選択してしまうと思います。その選択方法ってかかりつけって呼んでいいの?

国のねらいと制度、かかりつけのもつ意味と実態。これらが交錯して議論をするから混乱して話がわけがわからなくなる。特に医療を専門としない人のイメージや初めに医療を選択するときの消費者行動が非常に厄介だと思います。私見ですが、どこでも等しく医療を受けられる制度のなかで、医薬品の開発の進歩等で医療の質があがったために医師の技量の差が技術ではなくなった結果がかかりつけの医者がなくなったというパラドックスではないかと思っています。

やはり医師は診断の専門家だと私は考えています。診断は主訴だけではなく、そのときの程度や状況のほか、病歴、生活環境や育ってきた環境の情報もあればあるほど診断がしやすくなります。よく1件目の医者の薬が効かなかったからヤブだとか患者はいいますが、いつもかかっていない医者では情報不足なんです。2件目は患者自身の力で回復に向かっていたり、1件目の医者の治療行為から除外診断ができていっているにすぎないと考えると後出しじゃんけんで後の医者ほど勝つのは仕方ないことです。これをわかっていないとドクターショッピングしてしまいます。

これを知った上で市民はどんな医者をかかりつけにするのでしょう。ここに私は興味があります。いま私たちは現状の文句の前に、自分たちがどんな医療を求めるか考えるときだと思います。まず自分の受けたい医療のありかたから、どんな医者が必要か、そしてほかの職種の医療者とどうかかわりたいかを考えなくてはいけないのではないでしょうか。

それは時代の技術によって変わっていくものだからです。医者に診断だけをもとめるなら人工知能が発達した先にはそもそも「かかりつけ医」っていうことはいらない時代がくるかもしれません。


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第5回市民の医療参加を創る会「信頼できるお医者さんを持とう」

もし自分が急に具合が悪くなったとき、また自分の体調で相談したいことがあるとき、あなたはだれに相談をしますか?
紹介状なしで大病院にいくと治療費以外にも5,000円以上のお金をしはらいますが、それでも大きな病院にいきますか?

プライマリ・ケアの視点で自分の身近な健康についてみんなで議論してみましょう。


日程    2016年6⽉28⽇(⽕)
時間    19:00〜21:00  (終了後懇親会) 
会場    根津 みのりcafé  東京都文京区根津1丁⽬22­−10 
参加費  3,000円(イベントのみ) 2,000円(懇親会参加)
申し込み (FBの参加だけでは登録完了となりません)
http://www.kokuchpro.com/event/b7faaaccc5ccd7d2cabb58decbde26b6/

進⾏
 ・日本の医療療制度度とプライマリ・ケア(仮)
           東京財団    三原  岳
 ・医者に⾏かない人のためのプライマリ・ケア(仮)
           相模原市⽴青野原診療所  菅野  哲也
 ・ディスカッション

チラシダウンロード
https://drive.google.com/file/d/0B_6EjbcIlRHfSUhLNERCd3VZdUE/view?usp=sharing

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【市民の医療参加を創る会】
ブログ http://participationinmed.blogspot.jp/

医療を取り巻く環境は複雑化しており、一般市民が議論に参加するにはかなりハードルが高い状況です。しかし、医療は私たちの健康において、なくてはならないものであります。そして医療は我が国の社会保障の枠組みのなかにあります。私たちの暮らしに医療のない世界はもはや考えられなくなっており、私たちの健康を守るためにどうしたらいいのか一緒に考え、行動していきたいと思います。医療について、自分ゴトとして考え、そして意見を言えるようになるそのために様々なテーマを通して理解を深めていきます。

≪患医ねっと≫
HP http://kan-i.net/


2016年6月1日水曜日

始めないこと、止めること



この花はたぶん、紫陽花の仲間だと思います。いろんな種類があるんですね。

今回は、人生の最終段階における経管栄養の中止について書いてみようかと思っています。あらかじめ書いておきますが、単純にいいとか悪いとかいう話じゃないです。それを考えるのは各個人だと私は思っています。

<経管栄養について>
まずはどんなものかということを書いておきます。
食事を経口摂取できなくなったときに行う栄養補給のことを、人工的水分・栄養補給(AHN:artificial hydration and nutrition) と言います。簡単にいうと口以外から栄養や水分を取る方法のことです。ほかにもありますが、代表的なものは下記のものです。

食事が取れなくなったときに選択される栄養管理の方法の一つに経管栄養があります。経管栄養も経鼻経管栄養と胃瘻からの経管栄養とあります。どちらも一長一短があり、どちらが良いとも言い切れない部分があります。

経鼻経管栄養だと鼻からチューブを入れるという簡便さはありますが、鼻の周りがうっとおしく、チューブが硬いと潰瘍ができることもあります。そのうっとおしさから自己抜去してしまうこともよくあるので、それをさせないためにミトンをはじめ、身体拘束をされてしまうことも少なくありません。
それに対して胃瘻は内視鏡をつかって胃に穴を開けるのですが、胃瘻を作れる医師が必要ですが、顔の周りにチューブがないので自己抜去することもほどんどなく、管理は経鼻経管栄養と比べると楽になります。しかし、一般の方の胃瘻に対する抵抗感って思った以上にあるのではないかと思います。よく聞かれるのが「自然ではない」という言葉です。しかし口から食べられない以上、どの方法も自然ではないと私は思います。

経管栄養以外の栄養管理の選択肢はIVH(中心静脈栄養)があります。これは中心静脈にカテーテルを入れてそこから高カロリー輸液を入れます。カテーテルの管理などが経管栄養より難しいですが、あまり長期間のカテーテル留置はしないほうがいいものです。

これらの選択は患者さんの病態などで変わってきます。つまり、経管栄養は栄養補給の方法のひとつと理解してもらえればいいかと思います。

<人生の最終段階における意思決定プロセスガイドライン>
AHNの開始・中止についても様々な議論がありますが、患者の意思を尊重したなかでで最も患者にとって益のあるものを選択するという考え方をすべきだと私は考えています。基本的には厚労省のガイドラインに沿っていくプロセスになります。

このガイドラインができるまでの経緯は、2001年に日本老年学会からの「立場表明」が出てから、医療の意思決定のプロセスについて多くの議論が重ねられ、2012年にその立場表明について改定がなされました。同年に「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン 人工的水分・栄養補給の導入を中心として」も発表されました。

この流れの中、2007年に厚生労働省から「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」がだされ、これをシンプルにしたような形で、2014年に「人生の最終段階における医療の決定プロセスガイドライン」がだされました。

まず患者の意思決定を尊重するという考え方が根底に流れており、それには本人と医療者が話し合うというプロセスがあり、「一人で決めない」、「一度にきめない」を原則に医療の決定をするものです。このなかにも中止についてNGではありません。慎重に議論を重ねてた上での判断を促すようなものになっています。(人生の最終段階おける医療の決定プロセスガイドライン(解説編)

このガイドラインは非常によくできていると思うのですが、なぜかあまり使われていません。そこには誰かに決めてもらったほうがいいという心理があるのではないでしょうか。ひとつは「共感はしんどい」にも少し書きましたが、価値観の違いを紐解いていくプロセスはしんどいです。いまの現場の大変さや責任から考えると「決められた通りのほうが楽」と思考が止まってしまう人もいると思います。それとガイドラインも診療報酬等で誘導したものではないため、やらなくても痛くもかゆくもないと思っている人も中にはいるのだと思います。

<別にやめたっていいの>
実際の現場の話を聞いてみると、医療行為は始めないことはそれほどハードルは高くないですが、中止となるといくらガイドラインに書いてあっても難しいようです。行っていた医療行為をやめるというのは命を短くさせてしまうことにもなり、医療者には抵抗感があるようです。またガイドラインはガイドラインですから、法的拘束力はありません。もし何かあったら訴えらえるかもという恐れもあると思います。そういった現場の葛藤は良く理解できます。本当にいろんなパターンが臨床の現場にあります。

しかし、よく考えてみると、それは本当に患者自身が望んだ医療なんでしょうか。患者中心という名目の「患者・患者家族まかせ」の意思決定をする医療者もいることを私は否定しません。さらにこういった場面で医療者が迷うのは本人に意思確認ができない場合です。そして、ゆえに本人以外の人が本人の意思とは関係なく話が進んでいることって多いと私は感じています。

自分に戻って考えてみると、自分の意思と違うものを押し付けられたら、「もう私に触らないでください」って思ってしまうでしょう。AHNだって、ほかの医療だって自分で選択したい。それが嫌でリビングウィルやDNRを書いていたとしても、いざ私の意思を伝えることができないときに、それがあっても医療者が躊躇して中止してくれてないとしたらそれも嫌です。

やはり自分の受けたい医療についてあらかじめ考えるだけじゃダメだし、どうやったら伝えられるのかももっと考えていかないといけないと思っています。
問題が山積みですが、ひとつひとつ議論を深めていきたいです。