2016年11月14日月曜日

せたカフェ主催の認知症カフェに参加してきました


今日はせたカフェ主催の認知症カフェに参加してきました。
せたカフェは1年前くらいにお邪魔したことがありますが、認知症カフェは初めてです。


今回は松村医院の松村真司先生がゲストでした。ほぼ毎週お会いしているのですが、人前で話をしているところを見たことがなかったので一度聞いて見たいなと思っていました。そんなとき、私の友達も多く参加してるせたカフェでお話しをするというので行ってきました。

まず初めは松村先生のキャリアのお話。
お父さんが地元で開業している医師で、そのままそこを継ぐことを前提に医学部に入り勉強してが、その当時の医学部教育では、まちでよく見かける病気や怪我の治し方は教えてもらえなかったということで、家庭医の道を進んだそうです。
先生はちゃんとした家庭医のカリキュラムを受けたわけではないので正確には家庭医ではないと言っていました。私は十二分に家庭医だと思います。

今回のテーマである、認知症について事前に質問を受け付けており、それを答えるような形でお話が進みました。

1)認知症とはどういうものですか。
認知症とは状態を表している。治る認知症(ホルモン、薬剤性等)は治療をする必要があり、その鑑別はしなくてはならない。そうでない認知症に対してどこまでどのように治療すべきかは非常に曖昧かつ、哲学的なもの。そもそも病気と自然な老化との境界はどこか。病気を治療できるとしたら、どのレベルを目標に治療すべきなのか。

2)家族が認知症かもしれないという相談に対してどう対応しますか。
認知症によって家族にとって何が本当の困りごとなのかをよく聞いてそれを解決するようにしている。人と事を分けて、事に対して必要であれば介入をする。時としてしかるべき人にゆだねる。

3)認知症の人と接するときどういったことを心がけていますか。
同じ地域の住民として考えている。介入が難しい時もあるが、顔見知りの人を会したり、安心すこやかセンターにお願いすることもある。とにかく当面の困りごとについて考えている。

4)認知症に対して医療はどのくらい必要ですか。お一人様でも最後まで自宅は可能ですか。
認知症も治るものとそうでないものがあるので、治るものについては医療が必要である。しかし認知症だから最後まで自宅で居られないわけではなく、困りごとが何か、どの程度の困りごとなのかで異なる。


多分こんなお話だったと思います。いろんなエピソードを交えてお話いただいたので、私のメモが追いついていません。。。

他の参加者の方と話していて思ったのは、「認知症になるのが怖い、だから予防したい」と考える人が多いということです。「がんになるのが怖い、だから予防したい」と同じなんですよね。加齢に伴う自然な認知能力の低下ということをうまく受け入れられていないのではないでしょうか。昔は、「もう歳でボケてきちゃって」ということは当たり前だったように思います。でもみんなが長生きする世の中になり、医療の発展に伴って薬ができたり、検査ができたりします。

人間はいつか死にます。なんでも予防というよりも今を生きる方がいい。ただ準備できることは準備はすべきかとも思います。その準備とは、自分がボケても受け入れてくれる友達を作ることではないかと思います。

「ともちゃんボケちゃったけどしょうがない。」って言ってくれる人を増やすことが私の準備ではないかなと思っています。認知症って本人よりも周りが困ることの方が多いと思います。

認知症は記憶がどんどん失われていっても感情は後までずっと残っています。困ったことをした時に嫌がられると、相手の嫌な感情を受け取り周辺症状出てしまうのではないかと考えています。であれば「ともちゃんだからしょうがないね」ってニコニコ構ってくれる人が周りにいっぱいいれば少しは周りを困らせるような行動は取らないと思います。だから私は可愛いおばあちゃんになるのが夢なのです。

認知症は長く生きたからこそ出てくる問題だと思います。
写真は、認知症カフェに参加する前に行った松陰神社の吉田松蔭の銅像です。
彼の時代は今と逆で短く太くというものでした。



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