2016年12月30日金曜日

2016年の振り返り


そろそろ一年を振り返りましょうか、、、

私にとって2016年は自分の価値観を知る年だったと思います。自分の好きなこと/嫌いなこと、やりたいこと/やりたくないこと、したいこと/したくないこと、して欲しいこと/して欲しくないこと....それは自分の体調と向き合うことでわかったことです。

私は2015年の6月までは企業の中にいて、それなりに規模も大きな会社にいました。それがポーンと外に出て自由の身になった時、このふわふわした感覚に身の置き方に困る感じがありました。組織ってやっぱり見えない何かがあるんですよね。その感覚がまだ残る中で2016年がスタートしていました。私自身の悪い癖である「他人の期待に応えようとする」自分や「与えられた仕事は完遂するのが当然」と考える自分があって、必要以上に自分の感情を理性で押し込めてしまう。それが過度になるとメンタルにダメージを受ける。その悪い癖を引きずっていたと思います。

それがなぜ手放すことができるようになったかというと、加齢に伴う体調の変化に気づいたことです。これまではなんやかんや言って基礎体力があったんですよね。そして気力もあった。しかし無理が全く効かないのです。これまでの私なら頑張れたものが全くできない。考えたいのに頭がまとまらない。いくつも同時にこなせていたものがこなせない。とにかく休みたい。視力も老眼が入ってきて読みたい本が読みづらい。これが加齢なんだと思いました。これらによって迷惑をかけた方々もあります。しかし自分が壊れてしまっては元も子もないです。自分の体調を優先にさせてもらって申し訳なかったと思っています。

そんな状態の私は、内なる自分に「今私はどうしたいの?」と聞くことで自分の行動を決めました。以前の自分は未来をあれこれ考えすぎて、しなくてもいい気遣いや他人の仕事を被ったりすることで過剰なストレスを一人で抱えていたんですね。そんなことに気づいた年でもありました。

今までの自分の思考を手放すことにはたくさんの葛藤がありました。しかしそのおかげで自分の体調コントロールが少しづつできるようになってきています。たくさん睡眠をとったり、無理して詰め込んだスケジュールはしないようにかなりゆとりを持つようにしたり、自分が心地よいと思ったことを取り入れるようにすることによって、かなり変化してきたように思えます。

実はヨガ行くことも自分に課していました。でも今年の私は何かを自分に何かを課すことをやめました。体調が優れない時は多少の時でも行かない。これって普通の人はそうだと思うのですが、多少の不調で行かないということは以前の私はまずしませんでした。つまり私は一度決めたことはゴールを決めてやり通さないと気が済まない性分でした。そういう自分をやめる。食事も食べたいものを食べたいときに食べる。これまではストイックに食事制限をすることもありました。それもやめました。こんなに自分を甘やかすことはこれまでなく、そんな自分を受け入れる。結構私には高いハードルでした。

きっとこれが今年の私のすべきことだったんだと思います。出来ていたことがちょっとづつ出来なくなっていくことを受け入れる準備なんだと思います。もっと年齢を重ねればさらに出来なくなります。単に年齢に争うのではなく、受け入れつつ自分の価値観と折り合いのつける方法をこれからも模索していければと思います。

自分をコントロールできるようになっている分、ワクワクすると感じるもの、これ好きだな、やりたいなと感じるものは何かをもっと自分に聞いて来年はシンプルに生きていきたいと思います。

2017年のことは年明けに書きます。

2016年12月20日火曜日

「介護されしもの」との対話④


こちらは武久さんのお宅に伺った時に出して頂いたカフェオレとお茶受けです。
美味しかったです(^^ ごちそうさまでした。

今回の取材で感じたことをだいぶ書いたのですが、あと少し書き足りない部分があるのでもう少しお付き合いいただければと思います。

若くして介護を受けなければならなくなったのに、なぜこんなにも穏やかな口調なんだろう。これが私が会って話を聞きたいと思った最大の理由です。

多くの場合、自分自身の人生を呪い、過去の自分を責めてしまっていると思います。今を否定していると未来を見ることができない。しかし、武久さんは未来を見ています。その武久さんとの会話の中で印象に残っているのは「いいこともあれば悪いこともある。全て帳尻があうようになっている」「ものは考えよう」と言っている。ああ、そうやって武久さんは人生を見ているんだなと思いました。頂いた冊子やブログの中にもその端々がたくさん出てきます。人間の心というのは簡単ではないです。様々な感情が蠢いてざわつきます。ほんの数時間のヒヤリングですから、深く聴くことはことはできませんでしたが、今の武久さんであるまでに様々な出来事や事件は必ずあったと思います。

本当に行ってわかりました。武久さん自身の生きる力も他の人よりずっとありましたが、それとともに本当に素敵な奥様がそばにいらっしゃいました。べったりと介護する訳でもなく、優しく微笑みながら私たちの会話を聞いていらしゃいました。奥様もきっと一緒に二人の人生を受容して寄り添い生きてきたのだと感じました。ああこんなにも人がそばにいるとこんなに強くなれるんだと思いました。

武久さんにもまたお会いしたいですが、奥様にもまたお会いしたいと思いました。





色々とお気遣い頂きましてありがとうございました。

「介護されしもの」との対話③


この写真はあつみ温泉にある熊野神社の鳥居です。境内には芭蕉の供養碑や学童疎開の謝恩の記念碑などもありました。
インターネットには載っていませんが、この鳥居の左に赤い鳥居がたくさん連なっている道がありました。そこにも何かあるのかな?と思って登ったら、かなり長い距離と急な坂の先に鐘とこじんまりした社がありました。一体これは何を祀っているんだろう、、、

熊野神社


さて続きです。
前回で伝えたかったのは、同じ行為をしても相互の関係性によって感じ方が異なることと人には感情があるということです。人は感情をやたらめったら発するものでもありません(特に日本人は)。コミュニケーションは受け手が主体であり、受け手の感じ方を考慮しないで行う「介護」という時に身体的なサポートは人を傷つけます。

今回は介護側をもう少し深く考えてみたいと思います。

介護をする人は障害や高齢になって動けなくなった人以外にどのような態度をとっているのだろうか。同じように頬を撫でたり、ペタペタ体を触ったりするのでしょうか。そういった疑問がまず浮かびました。多分していないと思います。もしそういう癖があってどんな人にも同じようにしていたら、それはそれでそういう人だと受けとめた上で不快だという話をすれば比較的簡単に話が前に進むと思います。ですが多くの場合はそうではないと思っています。その理由は介護側の心の問題があるからだと思っています。

他人の体を触るというのは、近しい間柄を表現する方法と言えます。距離が近く自分は敵ではないことを伝える役割があります。スキンシップの方法には色々とありますが、触れる、握手、肩を組む、腕を組む、ハグ、キスなど沢山あります。これらの行為が意味するものは、それぞれが育ってきた環境や文化などに左右されるものです。ここから言えることは、介護する側は距離が近いということを言葉ではなく態度で伝えているということは間違いではないと思われます。その距離感はする側もされる側もそれぞれの認知の仕方で判断しています。

介護の場合はプライバシーに関わる部分に関与していきます。なので介護される側は動けないため非常に恐怖心を感じると思います。それを解いていくためにはある程度のスキンシップは必要です。優しく手に触れる、ちゃんと相手の目を見ることで警戒心は解けていきます。問題になっているのは近すぎる距離感です。例として頬を触ることをどのような場面で見るでしょうか。日本においては一般的に子供や親しい恋人の関係を表します。それを介護側がする心理状態って一体なんだろうと私は思うのです。本当にそんな近しい関係を求めているのでしょうか。私は違うと思います。それは他人を庇護している自分をいうものに価値を見出していると考えられます。無意識に介護する側に発する言葉は「事業所規則なんです。これをすることになっています」「介護保険ではそうなっているんです」という断り文句です。本当に親しくなりたいと考えているのでしょうか。そういう言葉は一線を介したい時に使う言葉で、やはり関係性と距離感が混乱していると言ってよいのではないでしょうか。

介護職の問題点とは介護職自身の自尊心の低さではないかと思います。自尊心とは自己に対する肯定感のことをいいます。意識的かどうかは別として他人の自尊心を傷つける人は自分の自尊心も低いことが多いのではないかと私は思います。それすら気づいていない人も多いと思います。その原因に社会的な評価、賃金、介護に対する社会の無理解だったりするのではないでしょうか。


そこを押し上げるための教育も十分ではないと思います。技術的なこと、制度のことなどが教育の中心であることが多いと思います。心の教育は研修をしたから心が育つものではありません。もちろん、介護される側がどのように感じているかを学ぶことはとても大事なことです。無理やり「自分たちでやっていることは素晴らしい」って言っている鼓舞する姿も、私個人として痛々しく感じます。本当の意味での自尊心があればそんなことをしなくてもいいのです。

こんな状況を本質的に変えていくためには、子供の頃からの心の教育や福祉とは何かを社会全体に説いていくことが本当に必要なんだと、武久さんとお話していて感じたことです。

まだまだ続きます。


2016年12月19日月曜日

「介護されしもの」との対話②


写真は今回宿泊したかしわや旅館の朝食です。古い趣のある建物ですが、手入れがきちんとされていて楽天トラベルの評価もとても高いところです。夜遅くにチェックインしたので夕食は食べられませんでしたが、朝はしっかりいただきました。とても良い宿でした。

かしわや旅館


さて、前回の続きです。今回は介護される側から見た介護職の問題について書こうと思います。

ブログでも発信されていますが、その武久さんが感じている介護職の方の利用者に対しての言動の問題は本当によろしくない。そういう話は他でも聞いていましたが、当事者の話を聞くと明らかに不快と感じることだと思いました。武久さんは特に後遺症のため体が動かなく、言葉も発しにくいだけで頭ははっきりしています。そのような方に子供扱いした話し方や過剰なスキンシップはハラスメント(人権侵害行為)と言ってしまってもいいと思います。

子供扱いについてはさすがに少し前から言われているので減っているとは思うですが、どうやらそうでもなさそうということをおっしゃっていました。一般的な40代の男性の太ももや頬をペタペタ触りますか?水商売の世界ならあるかもしれませんが、確かに普通の関係ではないですよね。世の中全体の事実に関してはもう少し調べてみますが、私は高齢者の方にそのような接し方をする医療・介護職の方を見かけることがあります。高齢者の方がそれに対して何も発しないのはそれをよしとしているのでなく、自らの衰えを自覚していて、ここで何かを言ったら身の回りのことをしてもらえないと思い我慢をしているのではないかと思いました。年齢がいっても男性は男性だし、女性は女性です。そして自分たちのこれまでの生活の中でおこなれる一般的なスキンシップに対する考え方はそうそう変わるものではありません。

介護とは、メアリ・デイリー(Mary Daly)によると「依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組みのもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係」とある。

この定義から武久さんの話を考えると、同じ摘便や陰部清浄という行為が介護サービスとい枠組みから提供されているが、その身体的欲求をケア側は行なっているものの、恥ずかしい、情けないことは避けたいといった情緒的な欲求に対して配慮がないと言える。ありがちなのは身体的なケアを行えば介護が成立しているという勘違いである。関係についても、同じ行為と態度をその場でしたとしても心を本当に許しあっている者とそうではない者では全く違った感情が生まれる。状況やそれぞれに対して、ケアをされる側が自分の考えを伝えることができるかというとそうではない。

武久さんは、「認知機能の衰えは人間の自尊心を守るためのゆりかご」ということをおっしゃっていました。本当にそうかもしれません。歳とともにできていたことができなくなる。そこでできないことを受け入れるためには、事柄を忘れる方がずっと楽です。ケアに当たる人がケアをされる方の自尊心というものを理解していない可能性があるのではないかと感じました。同じ行為でも誰がそれをするのかということで感じ方が違うように、そこには関係性というものがあります。武久さんとお話をして改めて気づかされました。

まだまだ続きます。

「介護されしもの」との対話①


今年のあっちこっちは先月で終わるはずでしたが、またもやついうっかりあっちこっちしてしまいました。そのあっちこっちは山形県鶴岡市のあつみ温泉まで足をのばしました。

ここに行こうと思ったのは、ずっと介護とは何かを考え続けていた時にこのブログを見つけたところから始まります。

【介護されしもの】

このブログの主は武久明雄さんです。武久さんは44歳の時に脳幹出血で四肢麻痺となり介護が必要となった方です。脳幹は人間の呼吸や体温、様々な調節機能を司る部分でともすれば亡くなっていた可能性もあります。44歳といえば、30代よりは若干体力の衰えばあるものの仕事もこれから脂の乗っている時期という年齢です。そんな時に突然倒れて介護を受ける身になってしまった武久さんから見た介護というものや、今の世の中に対して感じるものがこのブログには綴られています。その言葉に惹かれてついついアポイントをとってヒヤリングしに行ってきました。

いろんなことを感じて考えたのですが、今回のブログはざっくりとしたことを書こうと思います。その他のことは時間をおいてゆっくりと振り返るつもりです。

武久さんの自宅は山形県鶴岡市にあり、日本海に面した町です。あつみ温泉駅から車で約20分くらいの場所にあります。私は前日に移動しあつみ温泉の旅館に宿泊しました。調べてみると鶴岡市というのは歴史のあるところで徳川四天王の酒井家が治めており、あつみ温泉自体もお殿様の湯治場というところのようです。もう少し時間があれば色々と足をのばしたくなりますが、今回はヒヤリングのみの弾丸ツアーでした。それでも温泉旅館に泊まったのでちゃんと温泉に入ることができました。

ご自宅のお部屋の中はバリアフリーになっておりまた奥様の配慮の行きどどいた空間がそこにはありました。ベッドの横には介護リフトがありました。様子はこの動画を見ていただくとわかりやすいです。

【介護リフトのある暮らし】

かなり多岐にわたってお話をさせていただきました。
ブログの文章を読んでいて気づくことは、武久さんは障害を持ってしまったことに対してきちんと受容していることです。しかしそこまでたどり着くまでには様々な葛藤のあったでしょう。そして周囲の状況と周囲との関係。何が彼をそうさせているのか、そしてどのように感じ、どうしていきたいのかということを直接お話を伺いたいと私は思いました。

やはり発信するようになるまでには、一定の心の経過をたどっていらっしゃるのは、がんなどの病と同じだと思いました。そして自分なりの哲学を持っていることがよくわかりました。いただいた著書などからも読み取れます。

武久さんは病気になるまでは工場で組織をまとめる仕事をされていたそうです。生産効率を上げることを考えたり、メンバーを指導する立場だったそうです。そして釣りが好きで、矢沢永吉の好きなやんちゃなおじさん。明るくギャグを言って人を笑わせたりしていたそうです。

介護を受けるというのは、自らのプライドを手放すことが必要なこと。そしてそんな自分を赦す強さも必要なこと。それが若くしてその現実と対峙することになったということがよくわかりました。悔しさ、恥ずかしさ、やるせなさ、そして今あるものに対する感謝や愛情など一切合切がグチャグチャと混ざって、煮詰めて漉して出てきたのが、あのブログの言葉だったんだろうなと思いました。恨みつらみではない言葉がとても力強く感じます。ぜひ一度ブログを読んでいただきたいと思います。

一旦ここまでとしますが、続きます。



2016年12月18日日曜日

「看取る」ということについて


12月17日にみんくるカフェ「看取る」ということについてに参加してきました。
本郷3丁目にある金魚カフェが会場です。ちょっと気になっていた場所でした。私自身が金魚が好きというより、金魚のお店ってどんなとこだろうという興味です。カフェはアンティークな感じでなかなかよかったです。

人類学者の鈴木勝己さんのタイのエイズホスピスの話はとても興味深かったです。
日本では看取りというと、周りに人がいてお別れをするというイメージなのですが、タイは死にゆく人と現世を生きる人との交わりをよしと考えないという話を聞き、死に対する価値観の違いがあるのだなと思いました。

そもそもいい死とは何か。みんなで共通していたのは「穏やかな死がいいよね」ということですが、穏やかという定義も思い浮かぶ状況もグループの人みんなバラバラでした。

私はやっぱり「死を見つめることは生を見つめること」だと思います。
死に方は生き方であり、生きている時の考え方がそのまま死に対する考え方と直結するし、周囲との関係の中で自分が存在しこの世を去るまで関係の中で生きている。

自分がいくらいい死に方をしたと思っても、周囲はいい死に方をしたと思うとは限らないし、その逆もあり得る。お互い一致した思いで死ぬということはないと改めて思いました。生きている時も同じですよね。


看取りという言葉は周囲のものであり、あの世へ旅立つ人と現世の人がするさよならの仕方ということなんだなと思いました。



2016年12月13日火曜日

患者の意向を尊重した意思決定のための研修会



去る12月11日(日)9:00〜17:30、東京医療センター大会議室にて、「患者の意向を尊重した意思決定のための研修会」が実施されました。この研修会は平成28年度厚生労働省「人生の最終段階における医療供給体制整備事業」の一環として行われました。

この事業は神戸大学が主幹で実施しており、本年度は全国12ブロックで研修会を実施する事になっており、今回私が関わらせていただいたのは関東信越ブロックの研修会です。

参加人数は27施設101名でした。この研修会はとても注目度が高く、関東信越ブロックでは当初の定員の倍率も5倍くらいだったそうです。事務局の厳正な抽選で当たった方が参加していますので、参加できた方は本当にラッキーだと思います。

この事業は、人生の最終段階におけるプロセスガイドラインの普及が目的となります。

基本のスライドがありますが各地でいろいろな工夫で研修会が開かれています。私は関東信越ブロックで行われた内容をお伝えしたいと思います。

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1)イントロダクション
H28年度人生の最終段階における医療供給体制事業は、H26年、27年に実施していたようなモデル施設での実践ではなく、広くプロセスガイドラインを普及させるということを目的としてこの研修会が企画されています。本年度は12ブロックで研修会が実施されています。

2)プロセスガイドライン
人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドラインhttp://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10800000-Iseikyoku/0000078981.pdf

人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン解説編

プロセスガイドラインは厚労省からH19年に出されています。(改定27年)
世間でよく見るガイドラインとは異なり、このパターンの時にはこのようにする、と言ったものではありません。下記の図にあるように大まかな俯瞰図があるだけです。



人生の最終段階における医療の選択は、元気な時にはなかなか考えることが難しく、そのため患者本人の意思がわからないままに医療が施されていることも少なくありません。
しかし、医療者も家族もみんな患者にとって良かれと思って一生懸命やっています。ところがそれは必ずしも患者自身にとって本当に良いことであるとは限りません。
それぞれの価値観が異なっていることに気づくこと、また職種間の違いもあるということなどを念頭におき、患者にとっての最善とは何かを考えていくプロセスを経ることがこのガイドラインの肝になります。


研修ではプロセスガイドラインをSTEP1~5に分けて、ポイントをそれぞれ学びます。

STEP1 患者の意思が確認できるか否か
STEP2 患者の意思が確認できる場合の患者と医療者との話し合い
STEP3 患者の意思が確認できない場合、患者の推定意思を尊重する
STEP4 患者の意思も推定意思も確認できないできない場合はみんなで話し合う
STEP5 これまでのプロセスを経ても意見がまとまらない場合は複数の専門家で構成する委員会に相談する

今回は1〜4を事例を使ったワークを交えて理解を深めました。臨床倫理の4原則(自律性尊重、与益、無危害、公正)がそれぞれの事例においてどのように当てはめるかということを考え、それぞれの倫理原則が時にコンフリクトを起こすことを学びました。

患者にとって最善を考えるということは、本人の意向と家族、医療者それぞれに違う価値観の中で話し合いつつ合意形成していくプロセスということなのです。

3)アドバンス・ケア・プランニング:ACP
基本は患者の意思を尊重するのですが、もしもの時というのは必ずしも本人の意思を確認できるわけではありません。ACPとは「今後の治療・療養について患者・家族と医療従事者があらかじめ話し合う自発的なプロセス」のことを言います。研修会においてACPはSTEP3の患者の推定意思を尊重するために事前に医療者ともしもの時の相談をしておくことと位置づけられています。

事前の意思確認(アドバンス・ディレクティブ:AD)は必ずすれば良いというものではなく、むしろネガティブであったとう結果(The SUPPORT study)が出ています。その要因として考えられるものは患者自身がそのもしもの時の状況を予測できないことや患者がなぜその選択をしたのかがわからなかったり、代理決定者がADに関与していなかったり医療者と患者の価値観が一致しないということが挙げられています。他にも書面があったため問題が起こったりすることもあります。

ADもACPも目的は同じですがその概念は下記のようになります。



患者の意向を尊重し質の高いケアを医療者が行うためにACPは重要な手段です。そのプロセスを重視し、侵襲的ではないコミュニケーションを行うことが肝要です。
ACPは非常に難しく、本人が望まない場合においては傷つけてしまう場合があります。また、手間も時間もかかります。その反面、自己コントロール感が高まったり対話の機会が増えることからコミュニケーションが良くなることもあります。医療者はタイミングを見計らって話をすることが重要になります。またその重要な話の口火は医師が切ることが良いとされています。

研修会では話す切り出し方をロールプレイを通して、自らのスキルを確認しました。この切り出し方の引き出しを多く持つことで侵襲的ではないACPができるようになります。


4)最後に
それぞれのチームで一日を振り返りを行いました。職種間の違い、他院との違い、研修の内容だけではなく、いろいろと感じたことがあったと思います。それを言語化することを行いました。


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今回の研修会は私自身も学ばせていただく部分が多く、関わらせていただけたことに本当に感謝の気持ちでいっぱいです。倫理サポートチームの仕事だけではなく、その他の活動においても生かしていきたいと思っています。

本当にありがとうございました。