2016年12月20日火曜日

「介護されしもの」との対話③


この写真はあつみ温泉にある熊野神社の鳥居です。境内には芭蕉の供養碑や学童疎開の謝恩の記念碑などもありました。
インターネットには載っていませんが、この鳥居の左に赤い鳥居がたくさん連なっている道がありました。そこにも何かあるのかな?と思って登ったら、かなり長い距離と急な坂の先に鐘とこじんまりした社がありました。一体これは何を祀っているんだろう、、、

熊野神社


さて続きです。
前回で伝えたかったのは、同じ行為をしても相互の関係性によって感じ方が異なることと人には感情があるということです。人は感情をやたらめったら発するものでもありません(特に日本人は)。コミュニケーションは受け手が主体であり、受け手の感じ方を考慮しないで行う「介護」という時に身体的なサポートは人を傷つけます。

今回は介護側をもう少し深く考えてみたいと思います。

介護をする人は障害や高齢になって動けなくなった人以外にどのような態度をとっているのだろうか。同じように頬を撫でたり、ペタペタ体を触ったりするのでしょうか。そういった疑問がまず浮かびました。多分していないと思います。もしそういう癖があってどんな人にも同じようにしていたら、それはそれでそういう人だと受けとめた上で不快だという話をすれば比較的簡単に話が前に進むと思います。ですが多くの場合はそうではないと思っています。その理由は介護側の心の問題があるからだと思っています。

他人の体を触るというのは、近しい間柄を表現する方法と言えます。距離が近く自分は敵ではないことを伝える役割があります。スキンシップの方法には色々とありますが、触れる、握手、肩を組む、腕を組む、ハグ、キスなど沢山あります。これらの行為が意味するものは、それぞれが育ってきた環境や文化などに左右されるものです。ここから言えることは、介護する側は距離が近いということを言葉ではなく態度で伝えているということは間違いではないと思われます。その距離感はする側もされる側もそれぞれの認知の仕方で判断しています。

介護の場合はプライバシーに関わる部分に関与していきます。なので介護される側は動けないため非常に恐怖心を感じると思います。それを解いていくためにはある程度のスキンシップは必要です。優しく手に触れる、ちゃんと相手の目を見ることで警戒心は解けていきます。問題になっているのは近すぎる距離感です。例として頬を触ることをどのような場面で見るでしょうか。日本においては一般的に子供や親しい恋人の関係を表します。それを介護側がする心理状態って一体なんだろうと私は思うのです。本当にそんな近しい関係を求めているのでしょうか。私は違うと思います。それは他人を庇護している自分をいうものに価値を見出していると考えられます。無意識に介護する側に発する言葉は「事業所規則なんです。これをすることになっています」「介護保険ではそうなっているんです」という断り文句です。本当に親しくなりたいと考えているのでしょうか。そういう言葉は一線を介したい時に使う言葉で、やはり関係性と距離感が混乱していると言ってよいのではないでしょうか。

介護職の問題点とは介護職自身の自尊心の低さではないかと思います。自尊心とは自己に対する肯定感のことをいいます。意識的かどうかは別として他人の自尊心を傷つける人は自分の自尊心も低いことが多いのではないかと私は思います。それすら気づいていない人も多いと思います。その原因に社会的な評価、賃金、介護に対する社会の無理解だったりするのではないでしょうか。


そこを押し上げるための教育も十分ではないと思います。技術的なこと、制度のことなどが教育の中心であることが多いと思います。心の教育は研修をしたから心が育つものではありません。もちろん、介護される側がどのように感じているかを学ぶことはとても大事なことです。無理やり「自分たちでやっていることは素晴らしい」って言っている鼓舞する姿も、私個人として痛々しく感じます。本当の意味での自尊心があればそんなことをしなくてもいいのです。

こんな状況を本質的に変えていくためには、子供の頃からの心の教育や福祉とは何かを社会全体に説いていくことが本当に必要なんだと、武久さんとお話していて感じたことです。

まだまだ続きます。


0 件のコメント: