2016年6月29日水曜日

相談できるお医者さん


みのりカフェのコーヒーとスイーツです。


第5回市民の医療参加を創る会をみのりカフェで実施しました。
今回の企画は、現在の診療報酬制度改革は病床を減らし、在宅医療を増やしていこうという流れがあります。その誘導のために、今年の4月の診療報酬改定で紹介状なしの大病院受診時の初診・再診において5000円以上かかるようになりました。その5,000円をどう市民はどう考えるのか?ということを考えたのがきっかけです。

5000円を払ってまで大病院に行くことは患者にとって合理的な行動ではないのだろうか?という問いをたててみんなで考えてみました。

患者は「胸が痛い」とか「頭が痛い」「熱がある」など何らかの症状があってはじめて医療機関にかかります。その時に「もしかして。。。、ひょっとして。。。」と不安になるとき、近くのクリニックに行こうか、大病院にいこうと思うか。その時に5000円を払って行くか行かないかはその人の価値観次第だと思います。

それ以前に若い時はそれほど頻繁に医療にお世話になることはなく、巷に溢れる情報は正しい情報とトンデモ情報が混在しており、市民はどれがどれだかわかっていません。

その一つの解決策として総合診療医というものがありますが、日本ではまだ数が少なくどこに行っても会えるものではありません。

もう一つの視点である医療保険制度で考えてみます。今の社会保障制度は国が借金をしながら支えています。高齢化や医療技術の発展によって医療費はどんどん増えています。このままでは国民皆保険制度が破綻しかねない状況です。そのために国は病院中心から開業医中心へとシフトしようとしているのです。

総合診療医というものがどんなものなのかを相模原市立青野原診療所の菅野先生、そしてこのような話になった背景を東京財団の三原さんにお話していただきました。

(東京財団 三原岳)

(相模原市立青野原診療所 菅野哲也)



参加者の方は医療者の人もいましたが、一般の市民で医療に関心のある人や医療以外の専門職がほとんどで議論をしました。



今回改めて、一般の市民は医療に対する不信ってやっぱり強いんだろうなと思いました。自分の身近に信頼しているお医者さんがいないのでしょう。
「信頼できるお医者さんを作ろう」というタイトルにしましたが、結論はその道のりは長いということです。しかし、だからといってそのままでいいわけではないし、誰かが何かをしてくれるものでもないです。

だったらどうすれば!

ここから先は私見です。「プライマリ・ケアって誰が担うものなんでしょう」

「プライマリケアは、ケアやゲートキーパー以上の役目であり、最初の第一線としてアクセスされ、継続的・統合的に調合されたケアを提供する保健制度の中心的な役割である。必要とされた際の第一線コンサルタントであり、短期の疾病に限らず個人の長期的な保健状態を診る」とWHOは定義しています。これはプライマリ・ヘルスケアの一部として位置付けられています。

もしかしたらプライマリ・ケア担当は医師でなくてもいいのかもしれないというのが私の意見です。しかし医師には医師にしかできないことがあります。それは診断と治療です。

では、総合診療医以外の専門医の資格しかない医師がプライマリ・ケアができないのでしょうか。それはそんなことはないです。ただ、トレーニングされた専門家であるためより信頼度が増すだけだと思っています。

よってその場の役割で時に医師が、時に看護師が、時に薬剤師が担当してもいいのではないでしょうか。そして多職種で連携していく仕組みを構築するこれが現場でのあり方なのかと思っています。下手したら町ぐるみかもしれません。

しかし、診療報酬制度の話でいうとこの仕組みを金銭面での誘導だけでは、どうにもならないと思っています。制度なのでちゃんとルールをつくらなければなりません。

フリーアクセスのいいところは個人の意思で医療機関を選択できることです。しかしそのデメリットはどこを選んでいいのかわからないことです。逆に初めに開業医にいく大病院ほど待たない。デメリットは病院に行くにはなんらかのハードルがあることです。日本なら紹介状を書いてもらう、若しくは金銭的に多く払わなくてはなりません。どちらも一長一短です。

では、自分のこととして考えてみましょう。私はそもそも医療は不確実性の高いものだと思っています。医療技術の発展によって人の寿命は著しく伸びました。しかし人はいつか死ぬので、医療が寿命をいつまでも伸ばしてくれるものではないです。変な医者に先にかかると手遅れになるといいますが、病院にいったら確実かというとそうでもないです。
そう考えると、自分は自分の体のオーナーとして自分が考える健康を自分で作りたいし、ちょっとした軽い相談は自分の仲のいい医者に軽く相談すると思います。

一般市民の場合、その軽く相談するという場所を早く見つけることが鍵なのではないでしょうか。その一つの手がかりが総合診療医であり、地域とのつながりを考えてコミュニティ活動をしている医師を探すことなのでしょう。

いずれにしても、自分がどんな形で医療を使っていくか(←この発想が大事です)をきめて方法を自分で模索しながら、皆保険制度を守りながらどのような方法がいいのか考えていく必要があります。

2016年6月27日月曜日

医療事故調査制度


日曜日に午前・午後とハシゴでお勉強は嫌いじゃないけど、なんだか慌ただしくて腰を据えてお勉強できません。

午前中は危機管理システム研究学会の年次大会に参加しました。私はメディカルリスクマネジメント分科会で活動しており、今年度の活動報告をメンバーがするのでその応援に行ってきました。報告内容を簡単にいうと日本医療機能評価機構における「医療事故調査収集等事業」で収集・公開されている医療事故報告を分析し、提言をまとめるということをしています。今回はその途中経過の発表です。

危機管理システム研究学会

目的が発表の応援なので気楽に他の発表を聞いていましたが、なかなか興味深かったです。明らかに自分の専門ではないのですがわかる部分もあるのでなるほどねと思って聞いていました。人工知能による金融システムのリスクだったり、現在の日銀の施策など最近の興味の部分とかぶるので一つ視点をいただきました。


午後は医療の良心を守る市民の会の10周年シンポジウムに参加しました。今回のテーマは「医療事故調査の現状と今後」です。

医療の良心を守る市民の会


医療事故調査制度の6月24日にこの医療事故調査報告制度に関係する医療法施行規則の一部を改正する省令がでており、変更内容や現状などを聞きたいなと思って参加してきました。

医療事故調査制度


この制度がスタートしたのは2015年10月からです。制度は医療に起因し、または起因すると疑われる死亡または死産(管理者が予期しなかったもの)を院内でその事故調査をし、医療事故調査・支援センターに報告しなければならないというものを病院、診療、助産所の管理者に義務づけるものです。医療事故調査制度の目的は「医療事故再発防止」なのですが、医療者側と患者側の対立構造があると責任追及や訴訟の話になりがちです。そのためこの制度の話をすると医師法21条の改定の話題もでますが、今回はその部分の変更はありませんでした。


医師法第21条 
医師は、死体又は妊娠四月以上の死産児を検案して異状があると認めたときは、二十四時間以内に所轄警察署に届け出なければならない。

(興味のある方はググっていただけるといろいろと医療事故との関係の話題がでてきます)

今回の改正は方向的には制度の運用によって見えてきた問題に対応するかたちですが、いろいろと医師会等の動きがあります。また報告義務としている死亡もまだクリアとはいいきれないと思います。

「予期せぬ人の死」は医療者と患者家族では捉え方に差があります。途中経過にきちんとしたインフォームド・コンセントが行われていれば「予期せぬ」ということはありません。しかしそれがうまくいっていないから問題がおこるのです。この制度では死亡または死産を対象としていますが、医療事故の問題はそれ以外もたくさんあります。

リスクマネジメント的発想でいうとミスやエラーはかならず一定の確率で起こります。事故は誰か一人が原因になるということはありません。何人もの人のちょっとした行動の積み重ねが事故へとつながるのです。それは医療であっても同じだと思います。しかし医療と他のことと違うのは、人の健康や生命に関係することなのでミスは可能な限り少なくする、起こったことにたいして同じミスは繰り返さないということをしていかなくてはなりません。しかし今もなんでそんな単純なミス?と思うような医療事故が起こってしまうのでしょう。やはり病院組織に問題があるとしか考えられないです。

やはり医療事故は悲しい話です。懇親会の時もご自身の体験についてお話を聞かせていただきました。頑張って真摯に仕事をしている医療者がいる反面、嘘をついたり隠したりする人もいるのは事実です。

医療者と患者がともに向き合いお互いを理解していくプロセスを本当につくっていかないといけないのだと改めて思いました。


この医療事故調査制度に関しては総合確保推進法のその他の項目に載っていたりするので、しばらくは目が離せないところです。

総合確保推進法


2016年6月24日金曜日

災害時のMR活動


梅雨の晴れ間の空です。

熊本の震災の報告会に参加してきました。今回のテーマは災害時のMR活動です。
自分はどうしても災害時に現地に行くことができないので、遠くから支援をすることを選択しましたが、現地に入って支援をする人は本当に行動力のある人だと私は思っています。また、被災地で仕事をしている人たちも自分たちの家族もありながら、地域のために一生懸命仕事をしている人たちに心から敬意を表したいと思います。

熊本の話は何度か聞く機会もあったので、今回は製薬企業のMRがどうあるべきかということを考えていました。被災地での様々な活動やみんなの意見を聞いたりするなかで、明確に思ったことがあります。それはMR活動云々ではなく、製薬企業が災害時の情報提供の姿勢を企業と出していないことに問題があるということです。

MRはやはり製薬企業の社員であり、組織として動くことが求められます。ある意味、動けないのは企業が自分たちのことだけしか考えていないからです。では現場のMRに動けといえばいいのかというとそうではなく、情報発信はMR以外でも方法はあるのではないかと思うのです。例えばSNSだってあるし、Twitterだってあると思います。別に自社に限った話ではなく、一般情報として添付文書等の情報からも発信できるのではないでしょうか。また流通情報も現地にいなくても本社でできるはずではないでしょうか。

自社のBCP(Business continue planning)は自社のことだけを考えていけばいいわけではないです。特に製薬企業は医薬品を患者に届けることは使命です。リスク・マネジメントは事業を継続することが大切なことで、災害のようなクライシス・マネジメントであっても自分たちの被害状況が把握できた後は速やかに企業としての使命を果たすべく行動していくのが鉄則です。会社ができていないのにMRができていないというのは本当に現場が可哀想です。

もちろん、現場のMRがすべて使命感をもって仕事をしていたとも思ってはいません。他人事のような態度だったMRもいることを知っています。被災地のために何かできないかと考えボランティアや現場を回った人のことを色々と言っていた人のことも知っています。だからといって、そんな人に気をとられる必要はまったくないと私は思います。そもそもそんな人は通常のMR活動においても、何も現場の問題について感じる力のない人だと私は思います。

医療機関だけなく、町や避難所の様子をみて、「ここにいる人たちはどんな生活なんだろうか」「体調はどうなんだろうか」とか思いを馳せてみることができる人は普段のMR活動のときに医療者と話をするときに、同じような視点で会話ができる人だと思います。そういったことができない人が多いからMR不要論がでるのだと私は思います。災害時にちゃんといち早くそれに合わせて情報提供ができたMRもいたのですから、その人は普段から考えて仕事ができている人なんだと思います。

結局は一時が万事なのではないでしょうか。

また、製薬企業がこの災害に対して多くの義援金を出しています。その金額は非常に大きな金額です。もちろんお金をだしたからえらいわけではありませんが、あまりにも社会貢献の仕方がお粗末なので、もっと考えるべきではないかと思いました。







2016年6月20日月曜日

食べたいものは食べたいんです



この写真はInstagramに載っけた写真です。身近なものを撮ってはアップしています。
それにしても私は甘いものが好きで、よくいろいろ食べています。
和も洋もどちらも好きですね。ついつい手がでてしまいます。今日は自分の味覚と体調の変化について書いてみます。

私は甘いものが好きと書きましたが、私の場合、結構体調に左右されるようです。本当に体調がいいときと、何かの調子が悪いときでは好みの味がどうやら違うというのは自分でわかっています。食事が取れないくらい体調が悪いときはプッチンプリン®しか受け付けなくなるし、疲れているときの甘いものが欲しいときのチョコレートとか、生理前の体調不良時はシュークリームやらカスタードがこってりなどいろいろ好みは変わります。好みは違っても体調によって食べたくなる種類が違うと感じている人は多分他にもいると思います。

だからといって欲求の赴くままに食べると後悔することが多く、私は食べ過ぎて気持ち悪くなってしまいます。食べちゃう自分が悪いと思わないで、そういう自分(甘いものが衝動的に食べたくなる自分)がいることに気づくことが大事だとおもいます。そこで、冷静になぜこんなに気持ち悪くなるくらい食べたくなるのだろう、自分の体調はどこが良くないのだろうと考えることが必要です。そしてその原因を理解し、その自分なりの原因となるものに対する対応をきちんとしていくことが自分の体調をコントロールすることになります。

食べ過ぎて「私ってなんで食べちゃうんだろう。ダメだな。」と思って「食べちゃいけない」と思うと余計に過食になります。それは良い悪いは関係なく、その甘いものに意識が集中するのでどんどん気になります。しかし、食べちゃう自分に集中するのではなく、原因に意識を向けるとそちらの改善に向かいます。

この方法を知っていると、ちょっと食べてしまっても自分のちょうどよいところにもっていくことができます。一度試してみてください。

あ、ケーキを食べた言い訳ではないですよ。




2016年6月18日土曜日

「ねばならない」なんてない


これはある日の朝の写真です。最近、空を見上げて曇って面白いな〜って思っています。さて、今回は「ねばならない」がテーマです。なんとなく、ふと浮かんだので書いてみます。

実は10年以上前に香山リカさんをイベントで呼んで講演をしてもらったことがあります。それで、そのときのテーマが「ねばならない」からの脱却ということでお話をしてもらったことを思い出しました。「ねばならない」に縛られているなって苦しいよねって思ったので書いてみようと思います。これは他人事ではなく私も「ねばならない」に縛られていた一人だと思っています。

(「ねばならない」じぶん)
自分のことでいうと最近でこそ自身との対話で「ねばならない」という言葉があまりでてこなくなったのですが、昔はよく「〜は◯◯しなければ」とか「〜は△△であらねばならない」という思考がありました。〜に、他人が入るときもあれば、自分が入るときも両方ありました。

若いころはそういう思考を自分でしていることにすら気づいていなかったです。勉強をするのは当たり前だったし、規則正しい生活をするのも当たり前だと思っていました。ある意味とっても優等生だったと思います。多分それはとてもしつけに厳しい環境にあったのでやるべきことをやれば自分は好きなことができるというメンタルモデルを持ってしまったのでしょう。そのせいで、社会人になってからも自分の自由を守るために規則やルールを守るのは当たり前という考えになり「守るべきである」と考えてしまう。ルーティンワークはこなして当たり前なので「こなさなければならない」と自分で自分に言っていました。

その結果はやっぱりとっても優等生の結果です。振り返ってみると自分にプレッシャーをかけて実はしんどかったです。振り返ると本当によく頑張ったと思います。若かくて体力もあったし、でも自分を客観視できるほど余裕もありませんでした。

ところがはじめはうまくいっても、社会となると多様な人々と価値観の違いに自分ががんじがらめになってしまい、完全にダウンしてしまいました。多分こんなストーリーはどこでもあるんじゃないかなって思っています。

女性の場合だと、「結婚しなければならない」「子供を産まなければならない」「家事をしなくてはならない」「子育てをしなけばならない」「介護をしなければならない」などいっぱいあると思います。こんないっぱい「ねばならない」があったら本当に苦しいです。

それも一つではなく複数同時にやってきたりとか、最近では社会的にも女性の活躍を要請する社会的な流れもあります。ただただ好きでやっていれば別にいいのですが、どうしても生物学的に女性である以上、妊娠出産の時期などの限界もあります。男性であっても自分自身で「ねばならない」と自分の価値基準で思い込んでいるものもたくさんあるのではないでしょうか。

(「ねばならない」なんてない)
でも、「ねばならない」ものなんて本当にあるんでしょうか。
その「ねばならない」もののなかで、自分が「したい」と心から思えるものはいくつあるのかと考えると、残るものはほとんどないのではないでしょうか。また、「ねばならない」と誰がいっているのでしょうか。自分がそう思っているならしたいもの以外はしなくていいはずだし、他人だったらその期待になぜ応えなくてはならないのでしょうか。そうやって考えていくと、あれ?ってことになると思います。自分が望んでおらず、誰かの期待に応えようとしている自分の存在に気付きます。

でもその「ねばならない」と自分に適度にハッパをかける程度なら悪いこととは思っていません。私は頑張って多くの努力をして、いろんなスキルや知識を身につけることができたから今の私がいると思っているからです。でもその反面、頑張りたいけど、頑張れないときもある。忙しくて立ち止まって考える余裕が全くないときもあります。そうなってしまうと自分の狭い視野の中でひたすら頑張りすぎてバーンアウト。私も経験者です。「ねばならない」がいっぱいになって本当に苦しくて仕方ない状態になります。

不思議なもので心と体の状態は影響しあいます。この状態の体の状態を見てみるとあちこちに力が入ってガチガチです。歯をくいしばり、眉間にシワがよって、肩肘張っています。肩こりなんかもすごいのではないでしょうか。いわゆる力みすぎです。力を発揮したりストレスに対応するためにはゴムまりのような柔軟性が必要です。これはスポーツだけではなく、心も同様です。身体的な変化に気付いたら深呼吸をしたり、ストレッチをしたり、好きなことをするなどして体の力みを取る必要があります。これはレジリエンスを高める一つです。

(ま、いっか)
「ねばならない」と思ってやっている自分を客観視したときに、その事ができなかったら人間失格なのでしょうか。誰かに非難されることでしょうか。命を取られるほどのことでしょうか。それは全くないです。何かを恐れている自分がそこにいるだけです。「ねばならない」と頭に浮かんだときに、「なぜならば、〜〜である」とそこに理由となる言葉を当てはめてみてみるとわかると思います。3回くらいその理由を深堀するとなんとなく見えてきます。

それに気付いたら、私が自分で自分にいう言葉が「ま、いっか」「命までは取られない」です。人によって言葉は違うと思います。私の場合は「ま、いっか」です。だんだん「ま、いっか」が上手に使えるようになりました。






2016年6月14日火曜日

Learn Do Shear 無事終了


無事にLDS終了しました。

5時間の長丁場は若くないので終わってぐったりでした。

今回のテーマは「医療を料理「けんこうキッチン」~新宿のカオスパワーで未来の生き方をRe-imagine~」でした。
タイトルだけ見ると「お料理教室?」みたいですが、みんなで健康とは何かをそれぞれで考え、作り上げていくワークショップです。

会進行中の様子はこちらのTwitterのつぶやきをごらんください。

今回の一番の気づきは、みんなが考えている健康とは、笑顔だったり、ご飯が美味しく食べられたり、仲間と一緒のだったりするイメージだったのですが、やっぱり医療から見た健康とは大きく違うということです。医療からみると病気という基準をつくってそこに入らなければ健康という感じです。診断基準によって病気という概念が作られています。

診断基準ってある病気の特徴的な部分の一部を取り出して判断するものにすぎません。そりゃ、診断基準は必要です。だいたいどのくらいが病気なのかがわからなければ治療ができないので困ります。しかし、どうも診断基準に数字などがあるとそれが一人歩きしてしまっているように見えます。今回はその基準を云々いうのではなく、基準ばかりに目がいって何か大事なものを忘れてはいませんかということをお伝えしたいと思います。

健康は、他人の基準ではなく自分の基準で健康を選択していくことがとても大事です。(ただし、勝手な思い込みやトンデモ医療の基準はダメですよ)診断基準よりもよくなかったら、健康ではない確率が高くなっており、それを分かった上で自分が今を「自分で」選択しているということに自覚的になることが大事だと思います。自分で選択しているにもかかわらず、文句をいって後から「あの時早くから気をつけておけば・・」というのは違いますよということです。

でも、今回のワークではこの部分は掘り下げていなかったので、みんなが考えている健康ってちょっとづつちがうんだということだけでしたが、そこに気づいただけでも大きな変化があるのではないかと思います。こういう話は医療者からの病気のレクチャーではあまりしないですよね。本当は自分で選択している今に気づくことから健康づくりが始まるのだと私は考えています。他人から押し付けられる健康は私の健康ではないのです。

人の価値観によっても健康は異なります。日本人は日本人の文化のなかで健康や幸せという価値観を形成していきます。日本は島国のせいもあり、やや日本人は日本人ならみんな同じのように考えているように見えます。でもみんなちがうんですよね。そのみんな違った健康観のなか、この国のヘルスケアはどうあるべきか、これは私のテーマとしてこれからも考えていきたいと思います。


2016年6月9日木曜日

プロフェッショナル・オートノミーってどうよ


紫陽花もこんな色と形のものがあります。とってもかわいいですね。

最近やきもきしている問題があります。それは医師の専門医制度が今年スタートだったはずが、遅れていることです。

先日、「新たな専門医の仕組みへの懸念について」(要望書)が出されました。

それに対応して「新たな専門医の仕組みへの懸念について」(要望書)に対する厚生労働大臣談話が出されました。

実は要望書をだした人たちは専門医機構の社員という、、、

さすがにこの話は呆れました。

新たな専門医制度の仕組みについて

こちらにあるとおり、そもそもの視点は「専門医の質の向上」です。もちろん医師の地域偏在は現状としての認識はあった上での質の話だったはずです。
それがやれ認定のための研修施設が云々だとか、地域医療が云々だとかもういいです。

医師のプロフェッショナル・オートノミーという言葉を出して、結局「自分たちの好きにさせろ」と言っているようにしか聞こえないのが残念です。医師のプロフェッショナリズムにおける自律と、職業の自由と一緒にして議論するのは自己矛盾がでると思います。

なぜならば、医療の場合、もともとパターナリズムは医師の患者に対する思いやりや奉仕の心です。今は上から目線的に捉えられていますがけっしてそうではありません。医療の場合、プロフェッショナルな医師が患者に対して誠実であろうとすれば職業の自由という個人の自由に関する議論は本来成り立たないと私は考えます。パターナリズムという部分は省いたとしても、患者のため以外に利己主義な高い技術を持っている人をその職業のプロフェッショナルと呼ぶかというと呼ばないと私は思います。

とはいうものの、いまのご時勢、患者への奉仕をベースにという考えは古いし、職業としての自由は当然侵害してはいけないと考えますが、医療は公的な保険で成り立つ以上一定の制限は受けることは甘受すべきではないでしょうか。もちろん、がちがちに縛られることには反対します。現在の医療において「質」ってなんでしょうね。これは保険でカバーされる部分の話と同時にするべきだと私は思います。そうしないと客観的な評価ができないからです。

なんだか、悲しくなるような議論が続いています。患者や市民不在の議論はやめてほしいと思う今日この頃です。