これはある日の朝の写真です。最近、空を見上げて曇って面白いな〜って思っています。さて、今回は「ねばならない」がテーマです。なんとなく、ふと浮かんだので書いてみます。
実は10年以上前に香山リカさんをイベントで呼んで講演をしてもらったことがあります。それで、そのときのテーマが「ねばならない」からの脱却ということでお話をしてもらったことを思い出しました。「ねばならない」に縛られているなって苦しいよねって思ったので書いてみようと思います。これは他人事ではなく私も「ねばならない」に縛られていた一人だと思っています。
(「ねばならない」じぶん)
自分のことでいうと最近でこそ自身との対話で「ねばならない」という言葉があまりでてこなくなったのですが、昔はよく「〜は◯◯しなければ」とか「〜は△△であらねばならない」という思考がありました。〜に、他人が入るときもあれば、自分が入るときも両方ありました。
若いころはそういう思考を自分でしていることにすら気づいていなかったです。勉強をするのは当たり前だったし、規則正しい生活をするのも当たり前だと思っていました。ある意味とっても優等生だったと思います。多分それはとてもしつけに厳しい環境にあったのでやるべきことをやれば自分は好きなことができるというメンタルモデルを持ってしまったのでしょう。そのせいで、社会人になってからも自分の自由を守るために規則やルールを守るのは当たり前という考えになり「守るべきである」と考えてしまう。ルーティンワークはこなして当たり前なので「こなさなければならない」と自分で自分に言っていました。
その結果はやっぱりとっても優等生の結果です。振り返ってみると自分にプレッシャーをかけて実はしんどかったです。振り返ると本当によく頑張ったと思います。若かくて体力もあったし、でも自分を客観視できるほど余裕もありませんでした。
ところがはじめはうまくいっても、社会となると多様な人々と価値観の違いに自分ががんじがらめになってしまい、完全にダウンしてしまいました。多分こんなストーリーはどこでもあるんじゃないかなって思っています。
女性の場合だと、「結婚しなければならない」「子供を産まなければならない」「家事をしなくてはならない」「子育てをしなけばならない」「介護をしなければならない」などいっぱいあると思います。こんないっぱい「ねばならない」があったら本当に苦しいです。
それも一つではなく複数同時にやってきたりとか、最近では社会的にも女性の活躍を要請する社会的な流れもあります。ただただ好きでやっていれば別にいいのですが、どうしても生物学的に女性である以上、妊娠出産の時期などの限界もあります。男性であっても自分自身で「ねばならない」と自分の価値基準で思い込んでいるものもたくさんあるのではないでしょうか。
(「ねばならない」なんてない)
でも、「ねばならない」ものなんて本当にあるんでしょうか。
その「ねばならない」もののなかで、自分が「したい」と心から思えるものはいくつあるのかと考えると、残るものはほとんどないのではないでしょうか。また、「ねばならない」と誰がいっているのでしょうか。自分がそう思っているならしたいもの以外はしなくていいはずだし、他人だったらその期待になぜ応えなくてはならないのでしょうか。そうやって考えていくと、あれ?ってことになると思います。自分が望んでおらず、誰かの期待に応えようとしている自分の存在に気付きます。
でもその「ねばならない」と自分に適度にハッパをかける程度なら悪いこととは思っていません。私は頑張って多くの努力をして、いろんなスキルや知識を身につけることができたから今の私がいると思っているからです。でもその反面、頑張りたいけど、頑張れないときもある。忙しくて立ち止まって考える余裕が全くないときもあります。そうなってしまうと自分の狭い視野の中でひたすら頑張りすぎてバーンアウト。私も経験者です。「ねばならない」がいっぱいになって本当に苦しくて仕方ない状態になります。
不思議なもので心と体の状態は影響しあいます。この状態の体の状態を見てみるとあちこちに力が入ってガチガチです。歯をくいしばり、眉間にシワがよって、肩肘張っています。肩こりなんかもすごいのではないでしょうか。いわゆる力みすぎです。力を発揮したりストレスに対応するためにはゴムまりのような柔軟性が必要です。これはスポーツだけではなく、心も同様です。身体的な変化に気付いたら深呼吸をしたり、ストレッチをしたり、好きなことをするなどして体の力みを取る必要があります。これはレジリエンスを高める一つです。
(ま、いっか)
「ねばならない」と思ってやっている自分を客観視したときに、その事ができなかったら人間失格なのでしょうか。誰かに非難されることでしょうか。命を取られるほどのことでしょうか。それは全くないです。何かを恐れている自分がそこにいるだけです。「ねばならない」と頭に浮かんだときに、「なぜならば、〜〜である」とそこに理由となる言葉を当てはめてみてみるとわかると思います。3回くらいその理由を深堀するとなんとなく見えてきます。
でもその「ねばならない」と自分に適度にハッパをかける程度なら悪いこととは思っていません。私は頑張って多くの努力をして、いろんなスキルや知識を身につけることができたから今の私がいると思っているからです。でもその反面、頑張りたいけど、頑張れないときもある。忙しくて立ち止まって考える余裕が全くないときもあります。そうなってしまうと自分の狭い視野の中でひたすら頑張りすぎてバーンアウト。私も経験者です。「ねばならない」がいっぱいになって本当に苦しくて仕方ない状態になります。
不思議なもので心と体の状態は影響しあいます。この状態の体の状態を見てみるとあちこちに力が入ってガチガチです。歯をくいしばり、眉間にシワがよって、肩肘張っています。肩こりなんかもすごいのではないでしょうか。いわゆる力みすぎです。力を発揮したりストレスに対応するためにはゴムまりのような柔軟性が必要です。これはスポーツだけではなく、心も同様です。身体的な変化に気付いたら深呼吸をしたり、ストレッチをしたり、好きなことをするなどして体の力みを取る必要があります。これはレジリエンスを高める一つです。
(ま、いっか)
「ねばならない」と思ってやっている自分を客観視したときに、その事ができなかったら人間失格なのでしょうか。誰かに非難されることでしょうか。命を取られるほどのことでしょうか。それは全くないです。何かを恐れている自分がそこにいるだけです。「ねばならない」と頭に浮かんだときに、「なぜならば、〜〜である」とそこに理由となる言葉を当てはめてみてみるとわかると思います。3回くらいその理由を深堀するとなんとなく見えてきます。
それに気付いたら、私が自分で自分にいう言葉が「ま、いっか」「命までは取られない」です。人によって言葉は違うと思います。私の場合は「ま、いっか」です。だんだん「ま、いっか」が上手に使えるようになりました。
0 件のコメント:
コメントを投稿