2016年10月2日日曜日

どうすれば自分の望む「死」を選べるのか?


三鷹の栄養と嚥下を考える会に参加してきました。ここの仲間は本当に暖かく、私が自由でいられる場です。くつろぎすぎて、一人でお菓子をぽりぽり食べてました。。。

テーマは死生観でした。
三鷹の栄養と嚥下を考える会は人の「死」というものから目を背けることはできず、その「死」について対話をしようということでワークを行いました。

本をそのまま読むのではなく、キーワードを本から拾いながらみんなで対話をしていきます。そこから出てくるみんなの今感じているものがこの白い模造紙の上に広がるというものです。今回のブログ記事タイトルは、時間切れだったので後からこの問いを自分で深めようという宿題をいただいたのでそれを書こうと思います。

私が対話の中で感じたことは、自分の「死」と家族の「死」というもの、「愛」と「喪失」というものが自分の中に湧き上がってきました。そしてそれを支える今の医療についても考えてしまいました。

「死」とは肉体が滅び朽ちていく始まりの時です。
その前と後、そこには何かがあるのかを人は問うのですが、それには答えはありません。

それと自分の「死」と他人の「死」は自分と他人の生き方が異なるように「死」も異なります。人が生きていると多くの事が起こります。毎日起こる出来事に意味づけをして、自分の人生を歩んでいます。意味づけは自分でできます。それも自分の選択です。

予期される「死」と事故などで突然やってくる「死」。自らが命を終わらせるという選択をしない限り、それはいつやってくるかはわからない。

そういう意味は「死」は選べない。しかし、意味づけするのは人であるので、「生きかた」を選ぶことはできます。よって、自分がどうありたいか、生きていく様を自分で選んでいくことが「死」を選ぶことなのではないかと思います。

この年になると自分の周りの人が少しづつ亡くなっていきます。すべて私にとって意味のあることです。様々な人間模様あり、私もその渦の脇に居たりと何らかの感情の揺れの中で大きな学びを私に与えてくれました。

「死」の瞬間に対しても人は他人との関係性の中にいます。人は最後まで人と関わりづつけるもので、社会生活の中で、ある一定の自由はあるものの完全な自由がない様に、自分の「死」も他人のものなのかもしれません。

しかし、ある程度先の見えた「死」に対しては準備ができると思います。それは人が年老いていく中で、できることをどんどん手放して生きていかなければならない段階とともに、他人に何を期待して何を受け取るのかと言う、何となく他人に期待や依存してた部分を明らかにする過程を経る必要があります。

この準備は自分の「人生」の棚卸であり、人との関わりを見直していき、自分の心と向き合うことができれば自分の望む「死」に近づけるのではないでしょうか。






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