家の近くに咲いていたツツジです。薄いピンクで可愛いですね。
たぶん、それぞれ自分の聞きたい部分があって、その答えを求めてきているから質問がそうなるのかなと思います。その聞き方自体はまったく間違いではないです。
確かに「どうすればいいですか?」手っ取り早いし、知識が少ない時は人に聞くことは悪いことではありません。しかし、ちゃんと自分で本質を考えているのかな?と思うこともしばしば感じるのです。
それは方法論というのは自分で「課題」が明確になっているときに初めて意味があることだと思うからです。
地域の課題を解決するという言葉が出てきますが、多くは実は「問題」にしか目を向けていないと思います。問題と課題は全く違います。またまたネットの辞書でしらべてみました。
問題とは
1 解答を求める問い。試験などの問い。「数学の―を解く」「入試―」
2 批判・論争・研究などの対象となる事柄。解決すべき事柄。課題。「そんな提案は―にならない」「経済―」「食糧―」
3 困った事柄。厄介な事件。「新たな―が起きる」
4 世間が関心をよせているもの。話題。「―の議員」
課題とは
1 与える、または、与えられる題目や主題。「論文の―」「―図書」
2 解決しなければならない問題。果たすべき仕事。「公害対策は今日の大きな―である」「緊急―」
問題の中に課題が含まれていると理解してもいいのかもしれません。
さらに問題は目の前にある「厄介な事象」です。それに対して、課題は「あるべき姿に対する解決すべき問題=現状とのギャップ」によって生まれるものです。
そう考えたとき、いま世の中の人たちが言っていることって単なる「問題(厄介な事象)に過ぎないのじゃないの?と思うのです。なぜならば、あるべき姿の議論があまりありません。
よく聞かれるのが、「あるべき姿が示されてない。だから地域包括ケアがわからない」
う〜ん、これって・・・示されないといけないものなのかな?
あるべき姿ないところで議論をしても「問題(厄介な事象)」しか出てこないですよね。
また表面に出ている問題の本質までたどりつかないと真の「課題」を見つけることはできません。深く掘り下げるので、あるべき姿に対して課題はせいぜい3個ぐらいにしかなりません。
もう少しいうと、たくさんの問題を解決しても真の課題に遠くはなれたものであればあるべき姿にいつまでたってもならない、ということになります。
組織でも個人レベルでも自分はどうなっていたいのか、どのような状態があるのかが鮮明に描く必要があります。最低限でも方向が見えなければ、どんな解決策も意味をなさないとも言えます。
さらに地域の話では、あるべき姿はみんなで見つけて合意形成をしていくべきものです。それができていないからみんな好き勝手な方向と結論で議論が空中戦になるのです。その原因はそれぞれの心理学でいう「認知」が違うからです。これは一つの事象に対して同じ絵をみてもみんな違うように捉えてしまうことと理解するとわかりやすいと思います。
あるべき姿が見え、組織の場合それが共有されたあとは方法はいく通りにもあります。また現状問題となっている事象の根本原因を見つけ真の課題発見に結びつきます。
「現状が課題だらけだ!」と思ったら、いま描いているあるべき姿が本当のあるべき姿なのかということを見直してみるといいと思います。
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