2016年3月16日水曜日

ちょっと怖いこと


写真は先日行った軽井沢です。またまた本文とは関係ありません。

今回は教育のテーマの4つ目です。今回は教育の怖さです。

教育の場面で感じていたことがあります。それは教育はある意味で洗脳とかわらないということです。というのは、先日のブログで書いた「教育の目的は行動変容」つまり、行動変容の先にあるどんな行動にさせてたいかということに焦点をあてるとわかると思います。もう少しいうと戦時中の学校教育を思い出してみると戦争に向かうという行動変容をもとめていました。それって完全に洗脳ですよね。

教育理論のベースは心理学が含まれています。心理学は心と脳の科学と私は理解しています。人間の行動を分析していくのですが、人間の認知というものも同時に分析をしていくものです。ここでの理論は様々な実験によって立証されて一般化しそれぞれの分野で応用されています。その応用がマーケティングであり、教育となります。そう考えると知識は使い方を誤るととんでもない方にいってしまいます。いい意味で教育の理論を使っていければいいのですが、自分の思うように相手を行動させるためのものに使ったらそれは悪です。

戦時中の教育は極端な例ですが、他にも教育の恐ろしいところは一見いいことをしているという罠があることです。教えよう、教えようとしている姿勢は端からみると非常に熱心で素晴らしく見えます。しかし一歩間違えると相手に擦り寄り、そして依存に陥らせてしまう可能性があります。本当の意味での教育は自立を目指すべきものです。

例えば仕事の不振に悩んでいる人がいるとします。本来は問題行動を抽出し、その問題解決方法を学ぶことがよいことです。しかし教えよう教えようと熱心になるあまりあれこれ指示を出してしまうと受講者はそのとおりにやればいいと思ってしまい指示がないと動けなくなってしまいます。熱心なのがいいわけではないのです。

決して熱心がいけないと言っているのではなく、受講者の自立を促さないことは教育をする者がすべきことではないと言っているのです。なんのために教育をしているのかと常に問わないと「●●さんのおかげです」とか「勉強になりました」という言葉をかけられたいだけの自分の承認欲求を満たすための自己陶酔型教育者になってしまいます。

もっと怖いのが自己承認欲求を満たすために心理学知識を使ったら、、、意識的にやっていればまだ救いもあるかもしれませんが、無意識はもっと怖いです。これは教育者側の上下意識も関係してきます。教育は相手がいくら年下(子供も含む)であっても受講者から学ぶ姿勢がないと「自分は偉い人」の立場でしかものを考えられなくなります。

教育の立場は常にニュートラルな関係で、教えるというより一緒に学ぶというのが私の考え方です。

1 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

素晴らしいですね!
熱意を注ぐのは教えるのではなく、スムーズに学べる時空をデザイン、用意してあげるところですね。