2016年4月13日水曜日

敢えて「地域包括ケア」とは



新緑が美しい季節になってきました。

今日は医桜主催の勉強会に参加してきました。テーマは地域包括ケアです。

散々勉強している分野なのですが、この分野のことを全く知らない人の考え方を知ることが参加の最大の目的です。最近はプロやセミプロの人ばかりと話をする事が多過ぎて、地域包括ケアについてわからない人に対する理解や説明力不足を感じています。その道のプロと話すのは楽だし楽しいですが、自分の説明力向上のためにも敢えて自らに課す修行としての参加です(笑)

「地域包括ケアとはいったい何か」本当にあちこちでこの話が議論されますね。

介護保険制度のなかから出てきた地域包括ケアですが、医療や介護の話だけしていても本質にたどり着かないことは以前からわかっていました。その文脈のなかで「まちづくり」という言葉を以前から使っていたのですが、それでもなんだかインフラ整備とか町おこしのお祭りとかをイメージされやすいのではと考えていました。もちろんそれも間違いではないと思いますが、あくまでもそれは方法論とわたしは考えます。「住民自治」という言葉もピンときていないようだし、わかりやすく人に伝えるために、一言でいうと何かを自分に問うてみました。

まず初めに考えたのは「地域包括ケアは何のためにあるのか」です。私の答えは、「人々が健康で幸せに暮らせるようにするため」です。

ではその地域包括ケアは何かというと、「人々が健康で幸せに暮らせるような社会のあり方」だと思います。

どんな言葉が一番本質に近いのかと考えていた時に、私は「コミュニティ(共同体)を発展させること(ディベロップメント)」のではないかと言葉が降りてきました。

そもそも、まちは人が生活のために集まって小さな社会(共同体)をつくり、機能が生まれ発展してできています。そこにある人と人とのつながりで様々な生活の苦労を乗り越えてできたものが地域の絆だったりするのではないでしょうか。山なら山の、海なら海の、自然の驚異の中で肩を寄せ合っていきてきた知恵そのものが日本の村やまちの絆だと思います。まさにソーシャル・キャピタルです。

ソーシャル・キャピタルという視点が考えれば、コミュニティの数も、場所も様々であっていいと思います。また地区を超えたコミュニティもありです。

地方は地域のコミュニティということを中心に考えてもいいかと思いますが、都会に目を向けてみると、残念ながら地域というコミュニティは希薄です。ところがそこに住む人に目を向けてみると決してコミュニティに属していないわけではないです。「地域の人たちの活動には加わりたくない」と言っている人に目を向けてみたとき、コミュニティの参加がゼロではありません。そのコミュニティの輪は小さくてもあります。よって制度がそれを妨げるものであってはいけないと考えます。

しかし多くの人は地域ばかりに目をむけており、社会、あるいは個人のソーシャル・キャピタルの形成のためのコミュニティづくりにまだまだ目がむけられていません。そこに気づいてもらうためにも、話をするときに地区という概念をあえて外したほうがよいと個人的に思っています。というのは、今日も「地域のコミュニティには参加したくない」という人がいました。地域にいいイメージを持たない人もいて、強制的にそこに参加させられると感じてしまう人もいるのではないでしょうか。

そうすると「まちづくり」よりも「コミュニティ・ディベロップメント」と言ってしまったほうがコミュニティを発展・成長させソーシャル・キャピタルを拡大させていくイメージが伝わりやすいのかなと考えました。

これを制度に再度当てはめるときにはもう一度考え直す必要があるのですが、その分については、今後ゆっくりかんがえようと思います。

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